『彼岸過迄』『行人』の頃の夏目漱石は最初から設計図があるように思える

夏目漱石の『行人』を読み始める

この時期の漱石はとても読者を意識している気がする。

新聞に連載されていたということがよくわかる。

章の最後でしばしばもったいぶる。

こういう書き方はある程度、話の全貌が見えていないとできないのではないか。

と、読みながら考えている。

書きながら話が作られていくというのがわりと一般的だと思うが、この時期の漱石はそう思わせない。

『三四郎』『それから』は物凄い情熱と勢いで書き上げられた感じがする、とびきりの作品だと思う。

最近読んだ後期三部作。

『彼岸過迄』『行人』(まだ読み始めだが)は結構、最初から設計図があるような気がする。

そう考えると、同時期に書かれた『こころ』もすごく計算されたものの様に感じてくる。

しかし、『こころ』は自分には特別な作品なので、この流れで他の作品と一緒くたにできない。

そして『こころ』の評価というか、作品に対する読者の好みは分かれる。

『三四郎』が最高傑作だという人は多いが、『こころ』の評価はとてもいびつである。

もちろん、僕は大好きな作品だが。

梅田のステーションで降りるやいなや、自分は母からいいつけられたとおり、すぐ車を雇って、岡田の家に駆けさせた。

これが『行人』の冒頭だが、今、読んでも素晴らしい書き出しだと思う。

東京にいる(これまでの漱石の小説の主人公の)誰かが、大阪に来て、おそらく母の代理で何かを頼みに来たんだろうと想像できる。

特に漱石の読者にとってみたら、多分、仕事の周旋か、年頃の娘の結婚相手か、それぐらいだろうと思ってしまう。

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