納豆工場/村川とわ

 夜、寝る前に部屋の灯りを消して西の窓のカーテンを開ける。晴れた日は星空が見える。部屋の灯りを消すと、月明かりがどれだけ明るいかがよくわかる。窓を少し開けて肉眼で空を眺める。十二月の冷たい風がパジャマの首筋に入り込んで、すぐに窓を閉める。それから、ベッドに倒れ落ちるように仰向けになって他人の夢のような夜空を眺めながら、ため息をつく。

 あたし、なにしに帰ってきたんだろ。

 手を伸ばしてヘッドボードからケータイを取り画面を眺めた。もうしばらく誰からの連絡も来ていない。友達は誰でもあたしから連絡すればすぐに返信をしてくれるかもしれないけど、おそらく一回のラリーがあるだけ。あたしの投げかけに対する頷きか同意のみ。スタンプだけのやつもいる。気の利いた言葉はあっても会話が続かない。昔の友達となんか別に話なんかしたくないのについケータイの画面を眺めてしまう。

「実家の親のことが心配だというのは嘘なの。嘘というか、嘘じゃないけど、本当はそれだけじゃないの」

 あたしが東京を離れる一週間前、学生時代の友人の松木直人にポツリと呟いた。直人になら本当のことが言える気がした。直人は大学を卒業して社会人になってからもずっと年に数回二人きりで食事をする間柄だったが、その頃はもう以前のように頻繁に会うことができなくなっていた。その日もあたしが帰郷することを前年の暮れに直人に伝えてから、ようやく会う機会が得られた年明けの二月のことだった。

「わかるよ」と直人は言った。「三十過ぎると色々と先のことを考えるから。俺だってずっとこのまま今の会社にいていいのかなって思うから」

「それとはまた違うの」学生時代に好きになって友達以上の関係を続けていた頃の直人はそんなつまらないことは言わない人だった。いつからこんなに無神経な男になったんだろう。学生時代はもっと繊細な男で、直人に新しい彼女が出来たときもあたしに凄く気を遣ってくれて、なかなか言い出せなくて、その挙句、秘密にしていたことを謝ってきたりして、あたしは知っていて知らないふりをしていたのに、それが惨めでたまらなくて、彼の前で泣きだしてしまったぐらいなのに、今の直人にその片鱗はどこにもない。結婚が決まったときも年賀状なんかで知らせてきたりして、あたしの都落ちの報告と入れ違いになり、リアルタイムにおめでとうさえ言えなかった。

「で、これからどうするの? 実家帰っても、今からだとそんなにいい仕事もないと思うよ」

「別に仕事をしに実家に帰るんじゃないから」

「まあ、そうだろうけどさ」

「みんなあたしが実家に帰るって言ったら、凄く同情してくれるんだけど、別にそういうんじゃないからさ」

 強がってみるが、結局はそういうことだった。東京にもし留まる理由があればあたしは実家に帰らずにいられた筈だ。しかし、十五年以上暮らした東京であたしには持続出来うる確固たる関係を築くことができなかった。あるいは結婚さえしていればという思いがこの頃のあたしの意識の根底になかったことは否定できない。あと数年も東京にいれば、新たな絆が生まれるかもしれないという可能性の為に自らを捧げてみるという選択もあった。でも、普通の人は仕事や夢に自らを捧げる過程で絆をみつけるもので、そのことだけに全力疾走したりしない。あたしにしたところでそこまで自分を安売りしてまで、結婚にこだわりたくない。強がりだと思われるかもしれないけど、あたしはナチュラルなままで生きていたい。そういう意味で東京はやはり息苦しいところだった。ずっとこのまま突っ張って生きていたら、あたしは誰からも相手にされなくなるだろう。それに近頃の東京の空気にもあたしは嫌気がさしていた。あたしは東京の街は好きだけど、東京で行われるオリンピックには全く興味が持てなかった。どうしてだろう? 東京オリンピック開催決定のニュースで盛り上がるテレビを見て、世間と同じテンションで喜ぶことができなかった。できないどころか自分がどんどん世間から疎外されているみたいで面白くなかった。会社で上司に意見を求められてもポーズで称賛することさえできなかった。こんな可愛くない三十過ぎの女が誰かに愛されるわけがない。もはや誰かに愛されるという感覚はあたしの中にはなかった。愛なんて言葉は家庭のある人か、恋人のいる人のみが同期できるもので、あたしのような会社にしか属せない女には用のないものだった。もう東京を離れよう。東京を離れたら、あたしは幸せになれないかもしれないけど、少なくとも田舎に帰れば、あたしが傍にいるだけで幸せになれる人が一人いる。その人の為に生きてみるのも悪くない。それに、これから出来るか出来ないかわからない絆にすがるよりも、この先、いつ消えてしまうかわからない絆を手繰り寄せる方が、あたしにとっても幸せなことなのかもしれない。

 結局、そういう選択しかできないあたしは何を言っても言い訳になるが、早い話、若くなかったのである。三十三歳と言えば、なんというか、決して自分で自分を若いと言えない歳である。見た目が若いからという主観的な評価でなんとかがんばってきたけど、東京で繰り返される季節に全く感動できなくて、長く住んだ街なのに知らない土地よりよそよそしくなり、気がついたら友達という友達はみんな傍からいなくなっていた。主観的な評価ではまだまだこの先があるように思えたが、客観的な評価ではもうそれは終わりを告げていた。

 その日は十月最初の日曜で、雲一つない真っ青な空が広がり出掛けるには申し分のない日曜だった。あたしは朝から家でテレビを見ていたが、昼過ぎにラジオをかけたあたりから急に不安に陥りじっとしていられなくなった。「やばい、このままじゃラジオに葉書出しちゃうよ」あたしは急いで外へ出た。外へ出たはいいが、行くべきところがどこもなかった。いつもは大体、近所にある大きな本屋へ行くのだけど、別に実用の為に外へ出たわけじゃない。それに家でラジオを聴いていて不安になったんだから本屋に行ってもきっと不安になるだろう。西武やパルコを覗いたけど、何か欲しいものがあるわけでもなかった。しかたがないので電車に乗った。電車に乗ったはいいが、今度は行き先を考えると途方に暮れた。昔みたいに切符を買う習慣があるなら、切符を買う前に行き先を決めれたんだけど、今はそうじゃない。Suicaなんか持っててよかった試しが一度もないな。とりあえず目的もなにもないのだから適当にどこかで降りて、ただ街をぶらぶら歩けばいいんだろうけど、ふだん行かない街で誰か知っている人に会ったらどうしようと思うと、どこへも行けなかった。ねえ、あたし本当にどうしちゃったんだろう? あたしもう一人ではどこにも行けないよ。本当は映画が大好きで見たい映画がいっぱいあるのに一人で映画館に行くのが怖い。映画が終わって一人で感動して映画館から出てくるところを知っている人に会ったらどうしようとか思うと足がすくんでしまう。以前はシネマライズやらシネカノンなんかへ出掛けて映画の後にどこかで一人で軽く飲んでいい気分で帰ってきたりしていたのに、今はそれができない。渋谷で電車を降り、あてもなく歩いていたらあたしは表参道にいた。宮益坂、青山通り、表参道。あたしが一番好きな散歩コースだった。やっぱりあたし東京が好きなんだ。そうだ、あたしは度あるごとにこの辺りへ足を運んでいたんだ。街並みがとてもキレイで、近くに好きな本屋もあり、何も買わなくても歩いているだけで楽しかった。学生時代に通った夜間の専門学校もこの近くにあったし、直人と友達になったのも同潤会アパートに二人で写真を撮りに来た帰りだった。大切な思い出が、ここにはあった。「やばい、泣きそう」あたしは歩道橋の上から夕日を眺めて感傷的になった。夕日の方向に自分の本当に好きな人がいると言ったのは誰だっけ? ええと、あれ? そして突然、それはやって来た。「嘘? どうしよう? そういうことなの?」足がわけもなく震えていた。怖い? いや、そういうのじゃなかった。でも、知りたくないことを知らされるときに一人で待っている時の気分に似ている気がした。あたしはケータイを手に少しの間、思い悩んだが、結局、母に電話をかけた。

「お母さん? あのね。うちの二階の部屋って、この先、お兄ちゃんとかが住む予定とかありそう? そう、あたしの部屋だった部屋。……うん、うん。いや、急っていうかね、前から少しずつ考えていたんだけど、実はね、あたし、うちに帰ろうかと思うの」

 うちに帰ると言えば普通なら盆や正月の帰省の類だと考えるだろうと思い、次の言葉まで頭に浮かんでいたのだが、母はあたしが言った帰省は、すぐにそれ、つまり帰郷だということがわかったようだった。

「とりあえずまだお兄ちゃんたちには言わないでくれる。……うん、うん。いきなりごめんね。うん、大丈夫。うん、そう。たった今、決めたの。理由? わかんないけど、なんとなくね。あたしほら一人だし、今なら帰れるでしょ? え? オリンピック? いいよ、興味ないから」

 電話を切った瞬間、それまでの足の震えは止まった。母に電話するのにあんなに緊張したのは初めてだった。その後、あたしはしばらく原宿の街をぐるぐると歩きまわって家に帰ったと思う。思うというのは、あたしはその日のことは憶えていても、それからしばらく年末に直人に都落ちの報告をするまでの二ヶ月ぐらいの間の記憶がほとんどない。いったいどうやって暮らしていたのかわからない。憶えているのは母の電話を切ったときのあたしの清々しさだった。とりあえず、この暮らしを終わらせることができる。次に新しい暮らしが始まらないとしても、とりあえずこの暮らしを終わらせることができる。その為に長年続けてきた仕事を辞め、母と一緒に暮らすことを選択した。その時はわからなかったが、今思えば、それがあたしの東京で上げた唯一の成果だった。

 もちろん都を落ちれば、すんなり安住できる田舎に辿りつけるというものでもなく、そこへ辿りつくまでにあたしには越えるべき山がいくつもあった。十八歳の春に東京へ出て以来、年に数回、実家に帰ることはあれど、基本的にはとうの昔に故郷は捨てたつもりでいた。故郷は離れると、すぐに想像上のふるさとになると言われているが、そこへもう一度、自分が帰ってくるという想像はしていなかった。そして再び戻った故郷は、あたしの想像をはるかに超えるものだった。

 東京で十五年間、酸いも甘いも味わって、そこそこ人間として成長して帰ってきたつもりだったけど、その見通しはあまりにも楽観的に過ぎた。正直なところ、あたしは自分が生まれて十八まで育った土地では全く無用の人として約一年を過ごした。東京で信じて学んできた価値観がこちらでは全く通じなかった。あたしは東京でのキャリアを買われて(たぶん)、わりとすんなりと地元では老舗の家具店に就職することができたが、ものの一ヶ月でそこを辞めてしまった。仕事自体はあたしの得意とするべきものだったのだが、上手く会社にも、通勤を含めての街の雰囲気にも馴染むことができなかった。職場の人々は皆、親切に接してくれて、独身でその会社では比較的まだ若い部類に属するあたしは相当の期待もされて一部の先輩からは可愛がられもしていたんだけど、あたしは早々、彼らの期待を裏切ることになった。なによりあたしはそこにいる自分自身に馴染めなかった。辞めて正解だったという気持ちと、なぜもう少し我慢できなかったのだろうという気持ちが最後まであり、それは今も変わらない。加えて、この田舎の圧倒的な車社会の中で生きていくことへの戸惑いもあった。ずっとペーパードライバーだったので、親の車もまともに運転できないあたしは会社への電車通勤がとてもストレスになっていた。その後、結局、半年以上もの間あたしはプー太郎として、就職活動もせずに家事手伝いという肩書きで、親の年金にたかるという醜態をさらすことになる。

 といって、その間の紆余曲折をあたしはここで語るつもりはない。それは結局、新しい土地では誰もが受ける洗礼のようなもので、こういう語るに足りない挫折の一つや二つを語ることの恥ずかしさをあたしなりにも自覚しているからである。もっとも東京で好き勝手暮らしてきたあたしが、すんなり親の庇護下でこれまで通り自由気ままで暮らしていけるわけがないのは当然だし、大人の事情をわきまえた女なら通常こういうことは想定出来ていたはずで、今更、いちいちそのことを嘆いたり、愚痴ったりしたいわけではない。あたしが語りたいのはむしろその逆で、正直、そういう様々な苦難や後悔を差し引いてみても、やっぱり母のいる実家へ帰ってきてよかったということである。

 本音を言うと、毎晩、寝る前、暗がりの部屋の中から満天の星空を眺めながら、華やいだ都会の暮らしを思い返しているあたしは今でも田舎の暮らしに馴染んでいない。あのタイミングで東京を離れたことに今でも後悔をしている。それでも母と一緒に暮らすということは、三十四歳を迎えたあたしにはとても意味のあるものだった。

 都落ちして一年、あたしはようやく近所の納豆工場で働き始めた。前職の一ヶ月でスピード退職してから、半年以上ひきこもりの生活をしていたけど、このままじゃいけないと思い一念発起して就職活動再開したけど、結局、あたしの地元ではこれまでのキャリアを活かせる仕事は見つからなかった。たとえそれらしい募集があったとしても、企業側が求めている人材はパートタイムばかりで、フルタイムの募集はなかった。おそらく企業が求めているのはあたしみたいに働き盛りの独身女じゃなくて、扱いやすい主婦パートなんだろう。色んな仕事の募集要項を見れば見るほど、企業側の思惑が見えてうんざりした。地方は終わっているよ、とあたしは履歴書を書きながら何度も髪の毛をかきむしった。そんなあたしを見て母は一言「あんたが田舎をバカにしてるから仕事が決まらないんだ」と言った。いつもならムカっ腹を立てるようなセリフだったけど、あたしはそれを聞いたとたんにストンと腑に落ちて、それですっかりハローワークに通うのも、職務経歴書も書くのをやめにした。母に言われるまで全然、気が付かないでいた。あたしは田舎をバカにしていた。東京で駄目になったから帰ってきたのに、それを認められないで、更に自分の地元を田舎だから、地方だからと、腹でバカにしておきながら、面接ではキャリアだとかスキルだとかをそれらしく語って自分がイケてると思っていた。 

 結局その数日後、日曜日の新聞に入っている広告の中から、納豆工場のパート社員というのを選んで電話をかけた。そこを選んだ理由は、家から近いという理由だけだった。マイカーを持っていないあたしはとりあえず車なしで職場に辿りつける場所を探していた。不思議なもので電話をして、面接の日にちが決まったときにもうそこで働く気持ちになり、二日後の昼に面接を終えて家に帰るとすぐに採用担当者から電話があり、二日後から来て欲しいと言われた。母に「あたし仕事決まったわ」というと今回は凄く喜んでくれた。今回はコンビニで買ったアルバイト用の履歴書一枚で挑んだが、面接に落ちる気がしなかった。それはその納豆工場が人手不足で健康で働き盛りの人間なら大方採用するという裏事情を後から聞いてわかったことを鑑みても、母の一言であたしのこころは、もうここしかないと決まっていた。面白いもので、物事が好転するときはなんとなくわかるもので、あたしはたぶんこの納豆工場で、田舎での暮らしに軌道が乗ってなんとかあたしは以前のあたしに復帰できるという予感があり、そしてそれは実際に間違いがなくて、そこで働き始めてすぐにあたしは恋に落ちた。

 その人は清瀬敏郎という人で、あたしより六つ年上で四十歳だった。見た感じはそんなに若くないが、年相応というところだろう。まあ、顔はわりとタイプだったが、それでもそんなことに引き寄せられたわけではない。あたしが彼に興味を持ったのは、彼が少し前まで東京で暮らしていたということだ。つまり高校を卒業してこの町を出て、約二十年間東京で暮らして、最近、何らかの理由で地元へ帰ってきた。そして、納豆工場で働いている。あたしは彼と話がしたかった。それは彼への興味というより、おそらく東京での暮らしぶりをわかる人に話を聞いてもらいたかったからだ。あたしは依然、こころの中の東京という街を抜けだせずにいた。

 会社であたしは彼と話をしようと何度も試みたが、彼は全く話をしようという素振りを見せることなく、挨拶だけはマメにこなしてそそくさと会話になりそうな空気を切り上げるような人だった。周囲の人に彼のことを聞いたら、どうもあまり評判がよろしくないようで、みんな口を揃えてやっぱりあの歳まで独りっていうのには人間的に問題があるんじゃないかしらという感じだった。会社で行われる数少ない飲み会にも一度も来たことがないし、ときどき有志で行われる食事会にも誘っても出て来た試しがないようだった。東京で何していたのか知らないけど、あんまり関わらない方がいいかもよ。もちろん、職場の誰しもがあたしが彼に興味を示しているとは夢にも思っていなかったから、あたしも意識して彼らの忠告に対してあたしは素直に頷くだけで、それ以上、彼らを煙に巻く必要もなかった。彼が誰にもこころを開かないのは(これはあたしの勝手な思い込みというか決めつけだけど)、きっとこころをここじゃないどこかに置いて来ているからで、彼にとってもあたしと同じで、以前、暮らしていた場所、東京にまだこころを残しているから、こちらの人に馴染めないでいるのではないだろうか。つまり、彼もまたあたしと同じでボロボロになって帰ってきた組の人ではないだろうか。あたしなら彼の気持ちがわかるのではないだろうか、彼の孤独(これも決めつけ)を理解できるのではないだろうか。彼と言葉を交わす前のあたしはずっとそう思い込んでいた。

 結論から言うとあたしは彼とは東京という街に対する価値観を共有することは出来なかった。彼はあたしの差し出した言葉に微動だにしなかった。「東京はどこに住んでいたんですか?」というあたしの質問に彼は「色んなところ」と答えた。なにそれ? と思ったけど、嘘ではなかった。彼は東京に居た二十年の間に八回も引っ越しをしていた。最寄りの駅名だけでも六つもあった。聖蹟桜ヶ丘、八王子、国立、三鷹、吉祥寺、目白。「いったいなんの仕事をしていたんですか?」という質問に対して彼は「色んなこと」と答えた。またかよ、と思ったけど、これも嘘ではなかった。彼は二十年の間に引っ越しの数以上に転職の数もこなしていた。つまり定職にはついていなかったわけだ。「いったい二十年もの間、東京で何してたんですか?」

 彼と初めて話した日、あたしは質問攻めしていた。あたしはあたしの空白を埋めるために東京時代のあたしの話を誰かに聞いてもらいたかっただけなのに、彼に対してあたしは何も自分の話ができないでいた。というか、彼は自分からなにもあたしに聞いてこなかった。そうしてあたしは彼に対する質問を重ねることで自らの空白が少しずつ埋まっていることを彼と別れた後に気付いた。

 彼の家の近くで車を停めて彼を降ろすとあたしは自然と彼に手を振った。それからゆっくりアクセルを踏んで車を出して、ハンドルを握りながらバックミラーに目をやるとミラーの中で彼はあたしの車が消えるまで手を振ってくれていた。「えェ、もォ、なに? ・・・楽しいかも」とあたしはハンドルを握りながらポツリと呟いた。

 その日、彼を車で家に送ることになったのは、本当に偶然だった。あたしたちは電車の中でバッタリ出くわした。都会の暮らしなら電車や駅で知人と出くわすことは年に数回あり得るけど、あたしたちのような地方の生活圏内で、同じ会社の人が休みの日に約束をせずに電車の中で会うということはほとんどない。あたしたちは日常的に電車には乗らない。高校生や電車通勤している人や、電車好きの人のことは知らないが、あたしの会社に勤めている人はまず電車に乗らない。彼らの多くは連休が取れた時に、どこか遠くへ行くときにのみ電車を利用する。そう、例えばこの町ではないどこか別の文化圏へ行くときに電車は利用するもので、それ以外のときは車で移動するのである。あたしも東京から帰って来たばかりの頃は、自分の車がなかったから、ときどき電車を使っていたが、電車を使って行けるところは限られているから、結局、電車を使うことは日々、減少していった。前の一ヶ月で辞めた会社も車ではなく電車で通うことの不便さが大きな原因だったのも言うまでもない。都会に住んでいる頃は、車の必要性を感じないので平然とモーターリゼーションに異議を唱えていたこともあるが、実際に車を買い、その生活に溶け込むと車が凄く好きになるものである。その日、あたしが電車に乗ったのは東京に住んでいた頃に使っていた都市銀行の口座をいくつか解約しようと思い、わざわざ電車に乗って別の文化圏まで行った帰りだった。彼はその街の中心にオープンしたばかりの家電量販店にパソコンを買いに行った帰りだった。その街までは往復で三時間かかる。貴重な休みを使ってまで済ます用事ではなかったのだけど、あたしは別の文化圏へ出ないとフラストレーションがたまるので、時々、わざわざ用事を作って電車に乗ることがある。もちろん、彼のことはわからない。彼が東京を遠く離れて、この町で暮らすことをどう思っているかなんてあたしには察しがつかない。ときどき彼にあたしがこの町に対する不平不満を口にしても彼は穏やかに笑っているだけだ。華やかな街から田舎に移り住んだ彼はいったい何を思って毎日、暮らしているのだろう。

 その日、電車の中で彼を見つけた瞬間、あたしは心臓が止まりそうになった。あたしは普段、会社へ行く時はわりとざっとしていてデニムにスウェットや夏ならポロシャツやTシャツ、さらに車だからというのもあり、本当にファッションに気をつかっていないんだけど、この日はやはり街へ出るということもあり、少しギアを上げていた。もちろん、街で誰かに会うとかいうつもりもなかったんだけど、こういう時ぐらいしか気分を上げるすべがないんだからいいじゃん別に、という感じで気合い入れて電車に乗ったんだけど、明らかに場違いな気がした。場違いというか、あたし一人が浮いている感じをビシバシ感じていた。こんな格好で街へ行くなら、普通は男と会わないと辻褄が合わないんじゃんと思いながら、街中のウインドウに映る自分を見て、あたしまだまだイケてるじゃんって……ほんとバカみたい。田舎暮らしのフラストレーションが異常なぐらい溜まっているのか、ついつい余計なものまで買ったりしてしまった。案の定、帰りの電車の中では偏頭痛を起こしてしまい、ちょっと座りたいなあと思いつつキョロキョロと座席を探している時に彼を見つけた。彼はあたしが乗り込んだ電車の真ん中の方のロングシートに買い物の包みを大事そうに抱えて座っていた。あたしは今日に限ってきちんとした格好をしてきたことに対して、こころの中でガッツポーズをした。勝負服を着てきて、戦わずして勝った気分だった。この容貌で彼を釣れると思っているところが怖いが。あたしはまだ自分は彼に気づいてないふりで席を探す感じで、とりあえず次の駅で座れたらいいかという風な装いで彼の前に立った。普通はこの人たぶん次の駅で降りるかなあと当たりをつけて席に立つんだけど、周りから見たらすぐに、あっ、この二人知り合いなんだというのがなんとなくわかるような白々しさがあたしの動きにはあったのかもしれない。あたしが彼の目の前に立つと、あたしは周囲からの視線を感じて、彼も彼ですぐに顔を上げてあたしを見た。で、その時、思ったのは、彼もひょっとして少し前からあたしに気づいていたんじゃないかしらということ。そうしてあたしが気づくと彼も気づいたように装っていたような。

 あたしたちは電車の中でひと通り話をしてしまうとすっかり打ち解けて、地元の駅で降りてからも、また少し立ち話をした。彼の家は駅から少し離れたところにあるようで、帰りは家の人に迎えに来てもらうようだった。あたしは最近、車を買ったばかりで、もしよかったら乗って行くかと訊いたら彼は乗せて欲しいと答えた。あたしは駅のモータープールに車を停めてあるので取ってくると言って、走って車を取りに行った。ああいう風に走ったのってほんと久しぶりだった。

 彼とはだいたい月に一、二度デートした。デートと言っても近所のコメダでお茶をして、車で少し国道を走って音楽を聴いて別れるという感じだ。彼が神社・仏閣が好きなので時々、地元の誰も知らないようなところに連れていかれるけど、いつもひっそりした場所で退屈だったことは一度もない。そうしてそういう静かな人目のつかない場所にあたしを連れて行っても別に手を握ったりしないし、カラダを寄せてきたりもしない。おそらくあたしに対して欲望を感じたりはしていないんだろう。そのことであたしは別にがっかりはしていないけど、こころのどこかではいつかはそうなりたいという気持ちはなくはなかった。

 しかし、彼にとってあたしはどうあっても恋愛の対象ではないことは彼の普段の言動から見てとれた。あたしは大学時代からの友達の松木直人とのことで、男女の間の友情みたいなものがトラウマになっているので、出来れば彼、清瀬敏郎とはグレイな感じでダラダラと関係を続けたくなかった。だからといってきちんと明言して関係を発展させる見込みもなかった。結局、グレイなところを行ったり来たりしているのが今のあたしにはちょうどよかった。少なくとも今日、明日、彼とどうにかなってしまうなんてことはあたしには考えられなかった。ある程度の時間が必要だった。これは昔からの性分だった。

 もちろんある程度の時間をかけたところで物事は成熟するばかりで好転するということはなかった。それは今まで何度か経験済みである。直人とも一番いい時間をやり過ごしてから存在の大きさに気づかされることになった。そして気づいた頃にはもうもとの場所には戻れないところまで来ていた。そういうことを繰り返してきたあたしはやっぱり幸せにはなれないのだろう。結局、あたしのような女が落ち着く場所はここなんだ。

 あたしの生活の中心は、朝から夕方までの工場での仕事と、母と父とあたしの三人での二度目の家族というどこにでもありがちな、しかし多くの人が結局は経験できない(普通の人はお嫁に行くとか、自立や成長という言葉に縛られていて)、味わえばそれはそれはありがたい時間だ。

 あたしが東京からこちらに帰ってくるということに対して、二人いる兄は何ひとつ文句を言わなかった。むしろ、あたしが帰ってくることで、彼らの荷は少し軽くなったかもしれない。あたしの兄は二人とも東京で暮らしていて、二人とも家族があり、結局、娘なり息子なりが成人するまでは、帰れないということで、それはまだまだだいぶ先でおそらく彼らは帰るつもりがないんだろう。それでも親だけはどんどん歳をとっていくし、同じように自分も歳をとっていく。時間は待ってくれない。あたしだって今年で三十五歳になる。東京を引き上げて来てから早くも一年半が経とうとしていた。

 今思えば、あたしは時間に追われていたんじゃないかと思う。東京では常に前に進まないといけないという思いで日々を更新していたような気がする。もちろん、今思えば、である。東京にいる間はそんなことを微塵と感じたことがなかった。これが普通だし、これ以外は普通じゃない。そういう風にして本来の意味で大切な時間を自分の為に使いすぎて来たんじゃないだろうか。同時にあたしはわりと大きな割合で、時間を大切にしたいという考えを持っていた。それは世間一般でいう時間の大切さとは少し乖離しているものでもあり、あたしなりにその時間を確保できるように、特別な努力もしていた。

 例えばあたしは東京で暮らしている時、電車での通勤時間をなくす為に、職場に歩いて通えるところに部屋を借りて暮らしていた。都心でそれなりの部屋を借りるには、それなりの家賃を支払わないといけないが、それでも毎日、満員電車に揺られて一時間かけて通うよりはずっとましだと考えていた。しかし多くの人にとって、通勤には時間がかかるものだし、通勤にかかる費用は全て会社が持ってくれるものだから、通勤で費やした時間への対価は少しでも安い物件に住んで得るものだと考えられている。あまつさえ通勤電車の中で、本も読めるし、音楽も聴けるし、スマホもいじれるし、視点を変えれば通勤電車の時間こそが人生における貴重な時間だという言い分があるのもわからなくない。あたしも東京へ来たばかりの時はそういう風に考えていた。高い家賃を払って都心に住むのは馬鹿げているし、自分は決してそんな金銭感覚は身につけることなく、節度のある慎ましい女として生きていこうというのが上京した頃の志だった。

 中学生のとき英語の授業でタイム・イズ・マネーというフレーズを習ったときに、時は金なりという風に訳して、先生は「時間というのはお金と同じぐらい価値があるという意味」だと教えてくれたけど、東京で十五年間、暮らして、大学生とOLをやってわかったことは、その和訳の根拠のようなものはすでになくなっているということだった。つまり英語の授業で時は金なりと言われても首を傾げざるを得ない状況が、今後やってくるのではないだろうか。少なくともあたしの中ではすでにタイム・イズ・ノット・マネーである。もはや金銭には時間ほどの大きな魅力はないとあたしは思っている。だから、東京を離れる頃のあたしはたいした稼ぎもないのに会社に近いマンションを借りて暮らしていた。そうすることで手元に残る現金は減るけれど、手元に残る時間は増えることを実践してみせることを、あたしは生活の拠り所にしていたのだ。そして、それがいかに正しい方法だったとしても、結果的には失敗だったということは免れることはできない。つまり戦わなくていいところで戦い、孤軍奮闘したあたしはボロボロになり、最終的には東京にいられなくなったわけだから、個人的な社会実験としては失敗である。大多数の人々と足並みを揃えるのが苦手な上に、社会のシステムに組み込まれるのは嫌だというあたしなりの性向を守る手段として、試行錯誤の上、追求し見つけ出したニッチのような暮らしで満たされていたわけだけど、結果的にその暮らしはあたしを一人ぼっちの世界に追いやるだけのものになったわけである。

 もっともあたしの個人的な社会実験は田舎へ来た現在でも続けられていて、タイム・イズ・ノット・マネーは納豆工場でパートをしている今でも信奉されている。二度目の家族というバックグラウンドがあるおかげであたしの声はますます力をつけているような気もする。つまり闊達で生意気なあたしを取り戻しつつあった。あたしは時給で働くようになった今だからこそ本気で時間の価値を明らかにしたいと思っていた。時間と金は等価ではないという思いは今でも変わらない。正直、あたしは二十一日ある出勤日のうち一日でも自由に休める日がもらえるなら、その日は別に有給じゃなくてもいいと思っている。それはあたしが親の年金の庇護下になかったとしても選択しうるカードである。例えば時給九百円として一日出勤しても六千円ぐらいだとすれば、一ヶ月の収入から、一日ぐらいマイナスになったとしても、朝から晩まで普段できないことに時間を使える日が一日増えた方があたしには価値があるように思える。

 そういうあたしに母は「東京の大学まで出ていったい何を学んで来たの? そんな難しいことばかり考えているから、東京に居られなくなったんでしょ?」と言った。「もっと素直に色んなことに目を向けなさい。あんたは今でも東京にいる感覚でいるんだろうけど、こっちの人にはそんなことを考える余裕も暇もないのよ。一分でも多く残業して給料を増やしたいと思っている人がほとんどなの」

「それとはまた違うの」とあたしは言ったけどそれ以上、説明ができなかった。

 説明できないことはいつまで経っても説明できなかったが、とくに誰かがあたしに何かの説明を求めているわけではなかった。

 もちろん、母とあたしが意見をぶつけ合うことはなかった。母はあたしに思ったことをポンポンと投げてきたけど、あたしは不思議なくらい気に障ることがなかった。あたしはいつもそれを軽く受け止めて笑った。言い返す言葉はとくになかった。ただ、家で誰かと話が出来ていることが不思議なくらい楽しかった。これってひょっとして自由じゃないかしら? それに近い感覚があった。一人でいる自由からはかなりかけ離れているけれど、あたしにとってそれが今はいちばんしっくりくる手の中にある自由だった。例によって説明はできない。感覚でしかわかりあえないものがあたしと母の間にはあった。でも、この感覚が大事なのである。ここでのあたしは決して孤軍奮闘しているわけではない。たとえそれが負け戦だとしてもである。

かくして母と父(父に関しては書くことがありすぎて割愛させていただくが、本当はこの人があたしの都落ちの元凶でもある)とあたしの三人での暮らしは、東京で独り暮らししている頃のあたしからは想像できないぐらいに言葉にあふれたものになり、それぞれが愛情を意識すればするほど言葉は減っていくようにも感じられた。これがあたしたち家族の円熟期であるのではないかと思えるぐらい充実した時間を過ごすようになった。

 そうしてこれもあたしが東京で学んできた無駄な学問の一つなのだが、そうした幸福な時間は長くは続かないという思いがあたしのこころのどこかにはあった。

 もっともそれは三人のうち誰かがある日、突然、欠けるというカタチで現れるだろうと思っていたのだが、最年少のあたしが欠けることになるとはその頃のあたしは想像すらできないでいた。

          *

「会ってほしいんだ」と清瀬敏郎が言ったときあたしは耳を疑った。

 彼が会ってほしいと言った相手は、彼のお母さんでもお父さんでもなく、彼の同級生の女の人だった。

 もちろん唐突にそういう話になったわけじゃない。あたしたちなりの会話が煮詰まったところで、わりと自然な流れでそういう話になったのだ。

 あたしと彼は会社ではほとんど会話をしなかった。食堂で会っても、私語のような言葉は交わさずに、職場の挨拶のみに留まっていた。だから、まわりの同僚はあたしたちが休みの日に二人で会って、お茶したり、ドライブしていることは知らなかったと思う。たぶん連絡先を交換していることすら誰も知らなかったと思う。もっとも彼が会社の同僚の誰かにあたしのことを話していたら、すぐに会社中に広まっていただろうけど、彼はおそらく誰にも話していないと思う。これは彼と話を重ねているうちにわかったことだ。彼はあたしのことは誰にも言わないでいる。別にお互いにこのことは内緒にしておこうと口裏合わせをしたこともないし、この先、そのことを確認することもないだろう。

 はじめて話したときから、二人の間には共通の話題があったような気がする。それが未だにどういうものなのかわからないけど、あたしと彼は二人だけ特別な言語空間にいるような気がするのだ。そうして不確かだった共通の話題が二人のこころを埋めてしまう頃には、二人の間にはある種の暗黙の了解が生まれていた。

 そのときあたしは彼のことを恋人にできるかどうか悩んでいた。それは自分が女として彼に選んでもらうことができるかどうかの不安とかじゃなくて、自分が彼を男として選ぶことで、喪失してしまうものについてである。おそらくそれがあたしがこれまで大人の女として一歩を踏み出せなかったものであり、それはたぶん今持って形式では表せないなにかだ。あたしは間違いなく彼のことが好きだった。彼の手に触れてみたかったし、その腕に抱かれたかった。にもかかわらず、彼にその素振りを見せることもなく、また彼からもアプローチをかけさせないように男女を発展させるキモにあたる部分をずっと遠くに追いやって、ただ不安を時限的に回避していた。これは恒久的なものではない。

 きっと同じようなことを彼もあたしに対して感じていたのかもしれない。もっとも彼は男の人だからもう少し実際的だったかもしれない。つまり、ある種のもどかしさをあたしに感じていたのかもしれない。

 だからかもしれないが、あたしと彼の会話はこの頃、男女の間の距離を明確に言葉にすることで、お互いのことを意識して、また遠ざけたりして、最終的には異性としての友情を育てるように励んでいた。それはどちらかというとあたしというより、彼の方が熱心に説いていたことだった。男女の友情はあるかないかの話? なにそれ? 四十過ぎの男が今さら得意げに話すことなの? 

 あたしには学生時代の松木直人のことがある種のトラウマになっていて、どちらかというとその説には否定的だった。もちろん、ある程度の男女間には絆のようなものがあるのは信じている。でも、彼みたいに恋愛を一切否定して、その人との最上級の関係を信じているのはイタい。彼の言っていることは幻想だし、そんなのロマンでもなんでもない。ただの自分勝手な妄想だ。

 どうしてあたしはそんなにヒートアップしたのかはわからない。いや、わかっていたのかもしれない。でも、止まらなかった。もう売り言葉に買い言葉の域に達していた。

「そこまで言うなら、その人のとこに行って、あたしが確認して来てあげるよ。あなたの人生の中で一番の友達は誰ですかって訊いてみるの」

 後から、あたしは自分がとても無神経な女だと思った。いくら仲が良くなったからといって言っていいことと悪いことがある。彼にとって、その人はおそらく元カノか、かなわなかった恋の相手かどちらかで、結局、自己完結したい人の筈だった。それをあたしはまるであげ足をとるみたいなことを言ってしまい。つくづく厭な女だなと思う。でも、カッとなって、彼にムカついちゃったのも本当だ。でも、何に対してなのかわからない。そのとき彼はあたしの感情に触れたことに気付いたのだろう。結局、その日はそれについては何も言わず、ただ曖昧に笑っていただけだった。

 このことがきっかけで、あたしは彼に嫌われてしまったかなと家に帰ってからは思っていた。反省というより、この人もやっぱりないなと、なんとなく自分から身をひくことになるんだろうなと妙に冷静に、そして諦めに似たため息をついて、いつもの明るい夜空を眺めていた。

  

 それからしばらくしてからだった。彼はあたしにその人の名前を教えてくれた。

「白井由美さん?」とあたしは首を傾げた。「それって、こないだ言っていたあなたの一番の友達っていう女の人?」

「会ってほしいんだ」と彼は言った。

 彼は先日、あたしと別れてから色々と考えたみたいだった。そうして、この先のことを考えても、やっぱりあたしに自分の説を立証したいと思ったようだ。

「この先のこと?」

 彼はそれに関しては何も答えなかった。ただ、自分が言ったことの現実味のなさに照れているようで、ニコニコ笑いながら、首をひねって、やっぱり無理かなと言った。どちらにしても彼女がいるのは東京だから、会うと言っても、そうそう簡単にはいかないか。 

 彼もまたあたしに対して自信がないようだった。自分の主張をしてみるが、いつもそれ以上は主張できないで、自らを引っ込めてしまう。あたしもそうだ。彼があたしに特別な感情を抱いていることはわかっているのに、それを確認することができなかった。そしてその日もまたコーヒーを飲んで別れただけの二人だった。

 その日の夜も、あたしはいつものようにネガティブな夜空を眺めていた。あたしこのままどうするんだろう……。

 その時、目の前の星空に斜めにピンク色の光が流れた。ピンク色? いや紫だったかもしれない。でも流れ星のようなものではなかった。え? UFO! まさか。そう思ったけど、それがいったいなんの光線だったのかわからないから、やっぱり未確認飛行物体なんだよ。ていうか、最近、あたし、独り言が多くない? もう一度、目を凝らして見ていたけど、そのピンクの光は再び、現れることはなかった。あれはいったい何だったんだろう? 毎晩のように見ているネガティブな夜空がいつもより意味があると思えたのはあたしがまだまだ子供のこころを捨てきれないから? それとも何かの啓示かしら? 

 その瞬間、あたしは東京へ行こうと思った。東京へ行って、白井由美さんに会いに行かなきゃと思った。うまく説明できないけど、彼が彼女の名前を出したときから、あたしが東京へ行くことは決まっていたんだ。それはおそらく彼が望んでいることというより、あたしが望んでいることなのだと思う。彼はそのことを薄々と感じていて、あたしにその話題をさし向けてくれたのだ。

 翌々日、休みの日の朝早く起きて、彼には内緒で電車を乗り継いで新幹線に乗った。出発前に彼に連絡をしたら、決意がブレると思ったから、彼には東京に着いてから連絡をとることにした。なんと言ってもあたしはその人のことを名前しか知らないのだ。できれば彼には何も言わずに内緒で会ってきて驚かしたかったんだけど、どうやらそれは叶いそうもない思惑だった。東京の街で名前だけを手がかりに人を探すことは鳥取砂丘で観光客が落とした百円玉を探すようなものだった。新幹線の中で試しにフェイスブックの中を探してみたけど、同姓同名がたくさんありすぎて、その人の名前なのかどうかわからなかった。

 東京駅に着くと、すぐに彼に電話をした。彼が今日、休みなのは前もって知っていた。でも、もし東京駅に着いてから彼に繋がらなかった場合のこととかまったく考えずにいた。いや、新幹線に乗る前に一瞬だけ、そんなことを思ったかもしれない。でも、そうなった場合はそれでもかまわないような気がしていた。

 もちろん、彼とはすぐに繋がった。彼はあたしの電話をお茶かドライブの誘いかと思ったらしく、あたしにもう少ししたら電話するところだったんだよと言った。あたしはそれを聞いて微笑んで、一人で東京へ来たことを後悔した。休日の過ごし方として彼とまったりと午後のコーヒーを飲むのは決して悪くない選択だった。人で溢れかえる駅の改札を眺めながら、迎えることができなかったもう一つの休日を想像して、あたしは幸せな気分になった。それからあたしは東京に来ている旨を彼に伝えた。白井由美さんの名前を出して、これから会いに行くから彼女の住所と電話番号と顔がよくわかる写真を送ってくれるように彼に言った。

 電話からは彼の驚きや動揺は感じとれなかった。彼は「嘘だろ?」とも「どうして?」ともおおげさな声をあげることもなく、ただ「わかった」と言った。それから彼は「すぐに由美の情報を送るから」と言って電話を切った。

 あたしは彼がその人のことを由美と呼び捨てにしたことが気に入らなかった。そして彼からのメールを受け取ったとき更に気に入らないことがあった。彼が送ってきたメールに添付されていた写真の由美さんはあたしが思っていたよりキレイな人だった。それに彼が電話を切ってからメールを送ってくるスピードもあたしのことを打ちのめした。こんな短時間に彼女の写真を添付して寄越すことができるということで、彼のケータイの中には由美さんの写真が常に入っているということがわかったからだ。やっぱりあたしに勝ち目はないかもしれないな。そう思った。

 東京駅で中央線に乗って、三鷹駅で降りた。その人の自宅は三鷹駅から歩いて十分程度のところにあるようだった。あたしは迷ったがとりあえず彼から送られてきた番号に電話をかけてみることにした。気持ちとしては、何の前触れもなく彼女に問いたかったけど、やはりそれには無理があった。いきなり見ず知らずの女が家のインターホンを鳴らしたら誰でも驚くだろう。でも、電話するにしてもどうやって切りだしたらいいんだろう? 最初に彼の名前を出したらひょっとしたら話を聞いてくれるかもしれないけど、それでは今日、あたしがやってきた意味がない。あたしは何もない状態から彼女の口から彼の名前が挙がるのを確認しにきたのだから。いったい、どうやったら怪しまれないで彼女と話ができるだろうか?

 そこまで考えてからようやく怪しまれないで彼女にアプローチする方法がないことに気がついた。怪しまれない方法なんかあるわけないか、あたしがやっていること自体が相当怪しい行為なんだから。彼女の反応如何ではあたしは走って逃げないといけない。もし、通報されたりして警察の人にこんなところで何しているのか訊かれたら、あたしはなんて答えるんだろう。あたしの住所は四百キロも離れた田舎にあって、見ず知らずの女の人を訪ねてきている。「その人の一番の友達は誰なのか聞きにきた」なんて理由は決して言えない。そんなこと言ったら頭のおかしい女だと思われるだけだ。ていうか実際、あたしは頭のおかしい女なんだけど。 

 唯一のあたしの救いは電話での彼がとても落ち着いていたことだ。彼はあたしが由美さんに会いに行くことを特別なことと捉えていない。あたしと由美さんが会うことに彼は不安がないようだった。それぐらい彼は由美さんを信用しているということなのだろうか。そしてそれはあたしに対しても彼なりの信用があってのことなのではないだろうか。彼女に会ってあたしが惨めな思いをすることはないと確信しているからこそ彼は由美さんの情報を送ってきてくれたんだ。そんな彼の感覚をあたしは信じている。というか彼のことを信じているからこそ東京へやって来たのだ。

 数回のコールを経て彼女は電話に出た。「もしもし」と声を聞いた途端、あたしはようやく現実へ足を踏み入れた気分になった。今までは彼とのファンタジーを楽しんでいただけだった。見知らぬ女の人が知らない番号からの着信に不振がるリアルにあたしは怯んだ。

「あ、あのう、あたし……」

「もしもし?」

「あ、あの、白井由美さんですか?」

「そうですけど、あなたは?」

「あ、すいません」とあたしは最初に名乗らなかったことを謝った。「あの、あたし井上沙智子と言います」

「井上沙智子さん?」

「いきなりで申し訳ないんですが、今日、あたしが訪ねてくることを誰かから聞いていないですか?」

「今日?」と由美さんは言った。「ごめんなさい。井上沙智子さん。あたし、今日は誰とも約束はしてないわ。それに、あたしあなたの名前を聞くのは今が初めてだと思います。それともあたし、以前、どこかであなたとお会いしているのかしら?」

「いいえ、あたしもあなたにはまだ一度もお目にかかったことはありません。ただ、あたしの親しい人からあなたのことは伺いました」

「あなたの親しい人? その人のことをあたしは知っているの?」

「ええ」

「その人は誰?」

「言えません」とあたしは言った。「少なくとも今の段階では言えないと思います」

「わからないな」と由美さんは少し困惑したような声で笑った。「あたしにその人の名前を知られることがまずいというわけかしら?」

「そういうのじゃありません。もっと子供っぽい理由です」

「あは」と由美さんは声をやわらげた。「なに、その理由とかぁ。ますます気になるじゃない」

「例えばあたしが問題を出して、あなたが答えるとしたら、その人の名前があるとある種のクイズは成立しないんです」

「あはは。面白い人ね。いいわ、誰かは聞かないで置くわ。それで、これからあたしはどうしたらいいんだろう? まさか、これだけのヒントでその人の名前を当てろって言うわけじゃないでしょう?」

「実は今、三鷹の駅前にいるんです・・・」

 電話の向こう側で由美さんが困った顔をするのがなんとなく浮かんだ。それからほんの少し躊躇いながらも「ごめんなさい。あたし今、出られないのよ」と由美さんは言った。

 正直、あたしも内心ホッとした。もし、これから出て行くから駅で会いましょうと言われたら、それはそれで本望だったけど、実際のところ彼女を目の前にしてどんな顔をしたらいいのかわからなかった。

「いえ、気にしないでください、あたしもたまたま近くまで来たものですから」直接、彼女に会うことなく電話で要件を話すとなると、あたしは急に気が大きくなった。前の会社でも電話応対はあたしの最も得意とするところだった。

「実は今日、お電話を差し上げたのは由美さんに一つ伺いたいことがあったからなんです」

「ねえ、待って」と由美さんは言った。「あなた今、三鷹にいるんでしょ? もしよかったら家に来ない?」

「え?」

「だって、それ、電話で話すような話じゃないんでしょ?」

「あ、いや、でも」

「家は上連雀五丁目って少し歩くけど、歩くのは平気でしょ?」

「歩くのは平気ですけど、見ず知らずのあたしなんかがお宅にお邪魔して大丈夫なんですか?」

「だって、あなた、夫の不倫相手の人じゃないでしょ?」

「まさか…」

「だったら来なさいよ。あたしに用があって、遠くから来てるんでしょ?」

「え?」

「ね、そうしなさい」

「どうしてあたしが遠くから来てるのがわかるんですか?」

「違うの? そんな気がしたんだけど」と由美さんは言った。それから、家までの道順を教えてくれた。「とりあえず線路沿いに歩いてきて、近くに郵便局があるから、そこまで来たら電話してくれる? あと、お茶入れておくから、出来たら何か買ってきてくれるかな?」

 あたしは電話を切って凄くこころが落ち着いた気分になった。なんだろう? この気持ち。はやく彼女に会いたいと思った。彼が彼女に会うにあたっての心構えのいっさいを説明しなかった理由がわかった。彼にはこの展開がある程度、予測できていたんだろう。

 あたしは駅ナカの洋菓子店でケーキを買った。彼女の分とあたしの分と、あと晩に彼女が旦那さんと二人で食べられるようにと数を計算して詰めてもらった。

 三鷹駅の南口へ出ると、彼女の家までは中央線沿いに歩いた。あたしがここへ来るのは初めてじゃなかった。以前、まだ東京に住んでいるときに一度だけここへ来たことがあった。太宰治が好きで、三鷹を散策したとき太宰が写真を撮った鉄橋で同じようなポーズで写真を撮ったことがある。そのとき一緒にいたのは松木直人だった。直人との関係もまだこれから発展の予感もあり、文学とか全く興味のない直人があたしの趣味に合わせてくれていた頃だ。東京から引き上げてきた段ボールの中にそのときの写真は今も入っている。その写真は見なくても頭の中に残っている。印象的な写真は写真そのものを見なくてもくっきりと頭の中にあるものだ。太宰でいうとあたしは銀座のルパンの写真が一番好きだ。 

 しばらく線路沿いを歩き、床屋のある角を左に折れて少し歩くと右手に郵便局が見えて来た。あたしは郵便局のポストのそばに立ち止まって由美さんに電話した。

「早かったわね」と由美さんは言った。「じゃあ道なりに少し歩いて来てくれるかな? すぐにわかるから」

 返事をしてから少し歩いていると、道沿いにあるマンションの一室の玄関が開いて中から由美さんが顔を出した。あたしは写真で由美さんの顔を知っているけど、由美さんがあたし顔を見るのはこれが初めてだった。あたしが由美さんのマンションの前で立ち止まって、小さく頭をさげると、由美さんは玄関のドアに挟まれた感じで頭と身体半分を出したまま「紗智子さん?」と言った。あたしが頷くと、由美さんは「ちょっと待ってね」と言って玄関のドアを閉めてからサンダルを履いて外へ出て来て、あたしを迎え入れてくれた。

「初めまして」と由美さんは言ってから「ていうか、変な感じだね? あたしたちどういう関係なの? 今のところ」と笑った。

「ごめんなさい、あたし、その…」

「いいのよ」と由美さんはあたしの手をとった。「ね、中でお茶でも飲みながらゆっくり聞かせて」

 確かに変な感じだった。もし、仮にあたしが彼の名前を明かしていたとしても、ここまで親しくしてもらう謂れはない。一瞬、あたしこの人になんの話をしに来たんだろうと思った。けれども、彼女の家に上がり、居間で見た新たな光景に恍惚として、もう自分の目的の質問はしなくていいような気がした。

「ええ? 赤ちゃんがいるゥ!」とあたしはわけもなくテンションをあげてしまい、由美さんに叱られた。

「しぃー」と由美さんは声をひそめた。「ようやく寝たところなの」

「ごめんなさい」とあたしは声をひそめた。「赤ちゃんがいるなら言ってくれたらよかったのに。あたしなんかすっごい無神経な訪問してるみたいじゃないですかぁ」

「いいのよ」と言ってから由美さんは生まれたばかりの赤ちゃんの説明をしてくれた。赤ちゃんがいつ生まれたとか性別とか名前とか、生まれた日のエピソードやなんか。あたしはある意味それを興味深く、また我慢強く聞いた。「へえ」とか「そうなんだ」とか、正直、自分にはまだそういう機会がめぐって来ていないから、どこまで共感したらいいのかわからないし、同性として知っておきたいこともいくつかあった。でも、どちらにせよ、知り合いから聞かされる出産の話には関心を装う自分が感じられて、この瞬間は自分がとても厭になるのだった。

「そっかあなたのお友達は、この子のことを言ってないわけね。たぶん、知ってる筈なんだけどな」

「え?」とあたしは由美さんの顔を見た。「由美さん、ひょっとしてあたしが誰の知り合いかもうわかっています?」

「あはは」と由美さんは笑った。「たぶんね。あなたの顔見て確信したわ」

「顔?」

「あなたすごい可愛い顔してるわよ」

「やだぁ」と言ってあたしは顔を赤くした。あたしは両の手で顔を押さえた。

「でも、あたしが話す前に、あなたの話を聞かせて」

 そう言ってダイニングテーブルの椅子を引いてあたしを座らせた。あたしたちのところからリビングでスヤスヤと眠る赤ちゃんが見えていた。由美さんがコーヒーを淹れてくれている間、あたしは身体をひねってリビングの赤ちゃんを眺めながら話した。東京の暮らし向きや、このあたりの地価について、車の必要性の有無やなんか、やはり思うように世間話は続かなかった。

 それでも由美さんがあたしの買って来たケーキの箱を開けて、一つずつ皿に載せてコーヒーのマグカップを並べるとなんとなく話す雰囲気が出た。あたしたちは女同士で意気投合というか、ある種の男性を貶めるのにも共謀できるぐらい、わけもなく連帯できることをこういう時によく感じた。

「食べよ」と由美さんは言った。

「いただきます」とあたしは言った。

 それからしばらく世間話をした。あたしが東京にしばらくいた話。どこの大学に通い、どこで就職して、どこの街で暮らしていたか、そんな話。あたしは話すつもりはなかったのだけど、松木直人とのことも話した。彼女にとってはどうでもいい話だったけど、思いのほか彼女はその話を一生懸命に聞いてくれた。そうして、東京を離れて実家に帰ってしばらく引きもりの暮らしをしていたことや、このまま人生が終わるんじゃないかと思ったことを彼女に遠慮なしにぶつけた。

「でも一通りそういう困難は乗り越えたわけでしょ?」と由美さんは言った。「少なくともあなたはある一つの意志を持ってあたしに会いに来た。違う?」

 あたしは首を振った。ぜんぜん乗り越えてないわ。物分かりの悪い子供のような目で由美さんを見つめた。

「毎日、寝る前に部屋の明かりを消して窓の外を見るんです」とあたしは言った。「晴れた日の星空は夜なのに少し青いんです。あたしはそれが好きで毎日、寝る前に見ているんです。星の名前や、星座の名前も知らないけど、部屋の明かりを落とすとまず西の窓のカーテンを開けます。そうしてできたら窓を少し開けて、夜空を眺めます。そうして毎日のように夜空を眺めながらため息をついています。大好きな母がいて、父もいたりして、家族がとても仲良くて、この歳で娘の時代をやれるなんて思ってもいなかったからなんだけど、あたしこれでいいのかなってずっと思っています。だって子供の頃に描いた幸せとはあまりにもかけ離れているんだもの」

「ねえ、紗智子さんって、幸せな子と書いて、幸子さんじゃないんだっけ?」

「幸せな子じゃない方の紗智子です。します? その説明?」とあたしは嬉々として説明した。これはある種の持ちネタのようなものだった。「紗は糸偏に少ないって書いて、智は智恵子抄の智恵子の智です。糸が少ないってもろ縁がない字だし、智は智でなんか理屈っぽくないですか? 本読みすぎてダメになる人っぽくて。名は体を表すという言葉はわりと本当かなって思います。でも、あたしはこっちの紗智子でよかったとは思っていますよ。だって幸せの方の幸子で、あたしみたいな女だったら、高低差がありすぎて、あたしもっとグレていたと思いますんもん」

「あなた今、三十五歳でしょ?」と由美さんは言った。「あたしはなんていうか、自分で言うのも変だけど、わりと早い段階から幸せな時期があったからわかるんだけど、幸せはあまり早く手に入れない方がいいよ」

「由美さんは幸せだからですよ」とあたしは言った。「素敵な旦那さんがいて、あんな可愛い赤ちゃんまでいるんだから」

「あなたにはあたしが今、幸せそうに見えるの?」

「見えますよ。ぜんぜん幸せですよ。少なくともあたしよりは幸せでしょ?」

「あたしはそうは思わないわ」と由美さんは言った。「幸せは手に入れた後よりも、手にいれる一歩手前が一番幸せなのよ。あなたはまだそのことを知らないだけなのよ」

 由美さんはそれだけ言うと席を立ち、リビングで寝かしている赤ちゃんの様子を見に行った。赤ちゃんは静かによく眠っているようだった。その姿を見ながら、由美さんにあたしが持って来たわけのわからない質問は伝わるのだろうかと不安になった。

「あのね、由美さん」とあたしは彼女の後ろ姿に話しかけた。わずかに由美さんが振り返り「うん? なに?」と返事をした。

「由美さんの人生で一番大事な友達の名前をあたしに教えてくれませんか?」

「ねえ、あなた。それをあたしに聞く為だけにわざわざはるばる東京まで出て来たの?」

 あたしは頷いた。そうして彼女が自分のことを蔑んでいるかもしれないと思うととても惨めになり泣き出しそうになった。

「これからまた新幹線で夜までには帰るんだ?」

「馬鹿な女だと思いますか?」

「どうして?」と由美さんは言って笑った。「あなたは自分の好きな人のためにやってることでしょ? どうしてあたしがそのことを馬鹿にできるの?」

「そういうんじゃないんです」

「なにが?」

「だから、好きな人とか。そういう人じゃないんです。ただ」

「ただ、彼が自分のことをどう思っているか不安なんでしょ? 違う?」

「わからないけど」

 由美さんはコーヒーをもう一杯飲もうと言って流しの前に立った。それから流しの前でポットに水を汲みながら答えた。「あたしの人生で一番大事な友達は新井素子って子よ。作家の新井素子と同姓同名の女の子。あたしの中学の同級生。知ってる名前だったかしら?」

 あたしは黙ったまま由美さんの台所の後ろ姿を見つめていた。彼女は嘘は言っていないけど、感情的に本心を語っていないということだけはわかった。だからあたしは続けた。

「由美さんは男女の間での友情はあると思いますか?」

 由美さんはポットを火にかけてから、テーブルに戻った。

「清瀬敏郎でしょう?」と由美さんは言った。「あなたの友達ってのは」

 あたしは由美さんの顔を見た。由美さんはニコリと笑った。

「こんなことを女の子に平気な顔でさせるのはあたしの友達の中では一人しかいないよ。で、なに、男女の友情とか四十にもなる男がまだそんなこと言ってるの?」

「違うの。あたしが勝手にあなたに会って確かめてくるって言ったの。東京に来たのも全部、あたしが勝手に考えて、勝手にやって来て、勝手にあなたに迷惑かけちゃったの。ごめんなさい」

「あたしに会って、答えが違って、あなたはがっかりした? それとも少しは安心した?」

「わからない。でも、彼があなたのことを今でも好きなことはなんとなくわかりました」

「全然わかってないわよ、あなた」と由美さんは言った。「彼は本気であたしのことを人生での一番の友達だと思っているのよ」

「でも、あなたはそう思っていないんでしょ?」

 由美さんは首を振った。「友達とか友達じゃないとかそういう人じゃないというだけ」

 結局、あたしはその日、夕方近くまで由美さんのところに居た。

 昼過ぎに由美さんが始めた昔話を聞いていたら帰れなくなってしまったのだ。

「おそらく彼があなたをここへ導いたのは、その話をあたしにしてほしいからだと思うの」と由美さんはテーブルの上の空になったコーヒーマグを手の中で弄んだ。「もともとあたしと敏郎は二人で一組の友達じゃなかったの。あたしたちの間にはもう一人、男の子がいてね。その子を含む三人でようやくあたしたちは完全無欠な一つの世界を築いていたの。敏郎にとっての人生における一番の友達はあたしじゃなくその男の子なの」

「ひょっとして、由美さんはその人のことが好きだったとか?」

「先走るわね」と由美さんは笑った。でも、それはとてもシリアスな笑みだった。「本当に好きだったのかどうか今になってはわからないけど」

「わからないけど?」

「あたしは三人でいることが好きだったの。何をするのも三人が良かった」と由美さんは言った。

 あたしは由美さんがさっき話した早い時期に手に入れた幸せのことを思い出した。

「敏郎さんが由美さんのことを一番の友達だと言い張る理由はたぶん彼はまだその三人の関係を信じているんですね」

「今になれば痛々しい限りだけどね」と由美さんは言った。「当時はあたしはそれが鬱陶しくてね」

「敏郎さんが由美さんのことを好きになったんでしょう?」

 由美さんは首を振った。「もしそうだったら、もっと簡単に彼のことを突き放すことができたんだけどね。でも、本当はもう少し複雑でね。例えば、あたしたちの三人が一つの宇宙船に乗っているとしてね。その宇宙船は三人が揃わないと空を飛ばないんだけど、彼は一人、二人と船を降りてからも最後まで一人で空を飛ばそうとしていたの。もちろん、彼はあたしのことを思ってくれてのことだったんだけど、それだけにあたしは色々なことが耐えられなくなっていったの。それである時に彼からの連絡を全部、無視したの。ある程度、時間が経ってから、冷静に話したらきっとわかってもらえると思っていたの」

「それって二十代の前半の話でしょ?」

「大学の卒業式から就職してすぐの頃かな? お互い忙しかったから。あいつは就職しないで芝居やったりしてたから」

「芝居? なにそれ? 彼が? 初耳」

「本人に聞きなさい」と由美さんは話を先に進めた。「彼に最後に会ったのは社会人一年生の夏。西武新宿の駅のレンガに腰掛けて話したの。三十分ぐらいかな。あたしは本格的な仲直りがしたかったんだけど、彼はとても話せる状態じゃなくてね。それ以来、彼とは会っていない。もう二十年近くじゃない? その間、メールのやりとりを数回したかな? あたしが結婚するときと、彼が田舎に帰るときにそれぞれ数回のラリーをしたような……ときどき近影の写真だけをメールで送って来てたから、あたしも写真だけは送り返したりしていたから続いていることは続いていたの。そろそろ会おうかって話もしたんだけどね。彼は頑な人だから」

「話を聞くと相当の執念深い男のような気もしますね」

「まあ、お互い様だけどね。決して風通しのいい男って感じじゃないでしょ?」

 それでようやくあたしたち二人は顔を合わせて笑うことができた。そうして二人で出した結論は、彼が一方的に子供で空気が読めなかったということに落ち着いた。あたしは彼に対して自分が酷いことを言っていると思ったけど、由美さんも決して悪い意味で彼を評しているわけじゃないのはわかっていたから、つい悪ノリしてしまった。こういう形でしか愛を同期することができない人間だっているんだ。それにスラングでしか表現できない愛情だってある筈だ。実際、あたしは彼の子供っぽい発想のせいで、こんなファンタジーにアクセスすることができているんだし、大人で世事に長けている人ならあたしは彼のことをスルーしていただろう。世間は退屈な大人でできていることは明確な事実で、彼はその世間の外にいる人だった。退屈でもないし、大人でもないし、なんでもない。そんな人だ。

 あたしがそろそろ帰ると言ったとき由美さんは「駅まで送るわ」と言ってくれた。

「赤ちゃんを連れて外へ出るの大変じゃない?」と言うと、「なに言ってるの? 赤ちゃんがいるから外へ出るんじゃない。この人が生まれてこなきゃあたし一生、家で引きこもりしてたわよ」と由美さんは笑った。

 由美さんは赤ちゃんを子守帯で対面に抱いて括りつけ「これでよし」と言った。その母親の仕草を見て、あたしが「すごい元気なお母さん」と言うと、由美さんはニコリと笑い「さあ、行くぜ」とあたしの背中を押すように家から追い出した。それから昼にあたしが一人で歩いてきた線路沿いの道を歩いた。あたしは太宰のことも、直人のことも由美さんに話した。由美さんはただ笑っていた。由美さんと一緒にいるのがあたしは楽しく感じていた。

「このまま帰ってどうするの?」と由美さんが言った。

「どうしたらいいのかわかりません。とりあえず彼には由美さんに会ったことを話すけど、特になにも変わらない気がします」

「ねえ、紗智子さん」と由美さんはあたしの名前を呼んだ。「言おうかどうか迷っていたんだけど、昔ね、それこそ、あたしと彼が一番仲のいいときにね、お互いの結婚する相手は必ず合わせるって約束したことがあるんだよ」

「ハハハ。それって二十歳の頃の約束でしょ?」

「だからさ」と由美さんは言った。「あたしと彼が友達だったのも二十歳の頃だよ。それを今頃になってあたしのことを一番の友達だなんていうからには、その約束も生きてる筈だよ。それに、化石みたいな人生観の男だよ。彼がその約束を忘れているわけないよ」

「ほんとだ」とあたしは少しだけ由美さんの言葉を信じてみたくなった。

「ねえ、こっち見て」と由美さんはあたしの両肩を持ってあたしの顔をまじまじ見た。「やっぱりそうに違いないわ。あなた、もし彼のことを信じて、あたしに会いに来たんだとしたら、あたしのことも信じてもいいわよ」

「嘘だと言われるかもしれないけど、今日一日であたしは由美さんのことが凄い好きになりました。もし彼とうまくいったらずっとこれからも友達でいられるのかなと今歩きながら思ったりもしています。本当です。こんなに素直に誰かに気持ち伝えられるのなんてこの歳でそうそうないですから」

 あたしはずっとうつむきながら歩いた。

「ありがとう」と由美さんは言った。

 あたしはうつむきながら首を振った。ぜんぜん、あたしはそんなんじゃないんだからと言ったつもりだったけど、彼女にきちんと受け止められていることが嬉しくて言葉にならなかった。

「ずっと気になっていることがあるんです」とあたしは好奇心ではなく、一つの確信を持って由美さんに訊いた。「もう一人の男の子は今、なにしているんですか? その三人で過ごしてた頃の敏郎さんの一番の友達だった人。もし敏郎さんとうまくいったとしても、あたしはその人には会えない気がするんですが…そうですよね?」

 あたしは質問してから、これは聞いてはいけないことだということがわかった。由美さんはあたしの顔を見て、やっぱりその話かという風な表情をした。

「彼は大学生の頃に亡くなったわ」

「由美さんはその人のことが好きだったんですね?」

 由美さんは首を左右に振った。それはあたしの質問の内容を否定するものなのか、ぶしつけな質問をするあたしを単に制する為のものなのかわからない。ただ、あたしが訊ねたことに対する明確な答えがないことはなんとなくわかった。

「あたしはとても大切なものをいっぺんに失くしてしまったの。そしてそれを取り戻そうと努力したけど、結局、あたしの元にはなにも残らなかった」

 駅までの距離はあっという間だった。傾きかけた太陽の日差しは少しずつ優しくなりかけていた。

「また暑い夏がやってくるね。夏は好き?」

「夏? どうかな? 東京にいるときは好きだったけど」とあたしはずっと違うことを考えたいた。「敏郎さんに何か伝えることはありますか?」

「なにもないわ」と由美さんは言った。「あたしに会ったことだけ伝えておけばいいんじゃない?」

 彼女にそういわれるともう何も言うことができなかった。この先のことも、彼女と連絡先を交換するのも言い出さないほうがいいような気がして、あたしは曖昧に微笑んで理解した顔をつくった。

 改札で向かい合い由美さんにあたしが「色々とありがとう」と言うと、由美さんは「こちらこそ、あなたと会えて嬉しかったわ」と言った。

 それから由美さんはあたしの肩をそっと抱き寄せて、赤ちゃんとあたしを柔らかく包み込むようにして耳元で「幸せになりなさい」と言った。赤ちゃんの匂いが鼻先について、とても愛おしく思った。

 あたしは由美さんの顔をまじまじ見て「はい」と返事をした。そしたら急に涙が出てきて「やだぁ。どうしよう」と言ってそのまま逃げるように由美さんを後にした。改札を超えてから、振り返ると由美さんはまだその場にいてあたしのことを見送ってくれていた。男の人と別れるときは、見送ってくれる人とそうでない人がいる。でも女のあたしはどんな時でも男の人の姿が消えてなくなるまで手を振ったりしない。おそらく由美さんも同じだと思う。彼女はあたしが女だから、最後まで手を振ってくれているんだろう。冗談じゃなく、このときあたしは本当に女に生まれて来てよかったと思った。冗談じゃなく、今までして来た悪いことだけであたしが明日、有名になっても、由美さんだけはあたしの味方をしてくれるだろうと思った。

 中央線の電車に乗り込むと、あたしはかつてないほど幸せだった。なんだろう、この感覚。あれほど、憧れて帰りたくてしかたなかった東京の街がとても小さく感じた。あたしのこころはもうこの街にはないんだ。新しい世界の扉がいつの間にか開いていたんだ。

 品川で新幹線に乗る前にあたしはケータイを取り出して母に電話した。本当は彼に電話するべきだったんだろうが、あたしは母に電話した。

「あ、お母さん? あたし。これから帰るね。そう、まだ東京。……うん、スゴイ人が多いよ、相変わらず。友達? うん、元気にしてた。帰ったらまた話すけど、あたしやっぱ結婚したいと思ったわ。え? いいこと? ないけど、なんとなくね。あ、夕日が綺麗だよ。そっちは? 嘘ォ、雨なの? どうしよう、あたし、傘持って来てないよ」

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