マリッジブルー

家までの長くて急な坂道を登りきると、ダイヤモンドとレフトだけの縦長な公園があって、いつもはそこで写真をとったりメールしたりするんだけど、その日は東京で別れた彼が立っていた。そもそもこの公園は街を見おろせる高台のいちばんいいところにあって、ここから見える景色は東京のビルから見るのとぜんぜん違う。街が時間をかけて夕に焼けていくダイナミズムを愛しく思う感覚はまだあたしの東京が楽しいうちはなかったから。正確には何年前だっけ? 

そう思っているうちに彼は静かに二人の距離をつめていてピタリと足をとめた。あたしは少し怖いなと思った。でも少し大きめのダッフルコートに見覚えがあった。ブーツカットのジーンズにキャンバス地の白いスニーカーは昔のまま。生真面目な顔でカバンの中から本を取り出してあたしの胸に押し付けた。本にはカバーがかかっていたから、何の本かわからなかったけど、それを見た途端あたしは、たまらなくなった。ベージュの地にオレンジでP-BCとロゴが入っているブックカバー。あたしが吉祥寺でくすぶっているときいちばん好きだった本屋だ。店の名前が変わってしまったのに、昔からこういうのを大事にとっている人だった。

「借りていた本。読み終わったから返しに来た。あんまり面白くなかったけど」

「バカじゃないの」と言ったけどそうは思えなくて「吉祥寺からここまで1200㎞もあるんだよ」と手の中の文庫本を握りつぶしてしまいそうになった。

「のぞみがあれば五時間で来れるよ」

 そんなことを言いながら彼はこれを届けるまで四年近くかかった。その間、彼は誰かを好きになったのだろうか…たぶん、あたしのことを引きずってたんだろうな…妙に照れ屋の彼はとてもキレイな目をしていて、あたしはそれが好きだった。

「郵便で送ってくれたらよかったのに」

「郵便で送れるもんは四年前に全部、送ったよ」

 家の中に入ってコーヒーでも飲んでいかないかと誘ったけど、彼は要らないと言った。あたしはそんなことを言うべきではなかったのだ。

「帰る」という彼をあたしはひきとめなかった。ただ駅まで黙って隣を歩いた。四年近く過ぎて彼は随分、言葉数が減った。前はこうして歩いているとき彼は帰り道の寂しさについていっぱい喋ってくれる人だった。彼にとっては今がまさに帰り道なのかとあたしは想像した。彼は現在のあたしのことについては何ひとつ触れなかった。でも彼はきっと知っている人なんだ。だから今日がんばって来てくれたんだから。駅で彼と本当のさよならをした後、あたしの帰り道があって、ひょっとしたら坂の途中で泣いてしまうのかと思いながら歩いていたけど、結局泣けなかった。

 たぶん、これからやってくる人生のほうがあたしには大事だからだろう。

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