小説の恩恵

 降車側の扉だったので中野でいったん電車から降りた。ホームで目を細め、見ると一つ先の乗車口で同じようにして扉脇に立っている女の子がいて、僕は彼女のことを知っていた。迷うことなくその乗車口にまわり込み彼女の後ろに続いた。せまい電車の中で彼女とぴったりと身体をあわせるような位置に立った。生真面目に作られた顔が僕の耳の裏あたりにあり、ゴクリと息を呑むたび、意識が硬くなるのを感じた。なるべく彼女の身体に触れないように心掛けていたが、電車が揺れるたび肩と背中あたりに感じる微熱についてはそのままにしておいた。

 高円寺をすぎ、阿佐ヶ谷になっても車内の密は変わらず、身体を百八十度ひねらない限り彼女の顔を見ることができなかった。しかし荻窪、西荻、もしくは吉祥寺あたりになれば、自分なりのアプローチが出来るスペースを得られることを知っていたから焦ることはなかった。それに彼女がどの駅で降りるのかをも知っていたので、自分の方法と時間を見積もる余裕さえあった。ただ彼女が僕のことをまったく覚えていなかった場合、すぐにその電車から降りなくてはならないだろうという覚悟もないわけでもなかった。

 案の定、吉祥寺になると乗客の入れ替わりの間に僕と彼女は距離を経て、お互いの顔が見える位置にそれぞれ立った。彼女は乗車口とは反対側の扉の手すりにもたれ、窓の外をぼんやり眺めた。電車の中にいて吉祥寺は駅の傍の映画館の看板は妙に人目を惹く。僕はもう一方の手すりにもたれ彼女の横顔を眺めた。気色のよい色白の肌と、少しこけた頬にやはり見覚えがあった。髪は幾分短くなったのだろうか、色が茶けて毛先があちらこちらに乱雑に散りばめられていたため、前よりあかぬけて見えた。一年も前のことだ、変わるに違いない。

 彼女はストレッチの黒のデニムに深緑の薄手のジャケット姿で、肩から小さいクリーム色のカバンをかけ、手には見覚えのある洋菓子店の紙袋を提げていた。僕はというと、いつものジーンズに、グレイのパーカー付きのスウェットを着ているだけで荷物らしき物は何ひとつ持っていなかった。それと、これは別段トレンドでもないのだろうけど、僕も彼女も同じコンバースのオールスターを履いていて、そのことに妙な共感があった。僕が黒で、彼女が白。多分、世の中で最も当たり障りのないスニーカーなんだろう。それをジーンズと合わせて履いている人間は、色彩的にも、人間的にも、ありきたりな人間なんじゃないだろうかという僕なりの偏見があったのかもしれない。

 それもあってなのかためらいもなしに彼女の目に直接、自分の存在を訴えかけることができた。なにげない素振りで、しかし、悪い癖でじっと彼女のことを見つめた。

 はたして彼女は僕の顔に見覚えがあるのだろうか ――― 瞬間、ひらめいたように彼女の瞳孔が開いたような気がした。気のせいだろうか? いや、そうでもなかった。彼女は明らかに僕の視線を感じていた。いつから僕のことに気付いていたんだろう。僅かに互いの視線が重なったとき、紅潮もしたが、ひとつ、その瞳孔に向けて、自らの表情に更なる動きを見せた。すると「あっ」と彼女は白々しく、僕に思い当たったふりをした。それは僕を以前、何処かで見かけたことがある顔だと言わんばかりで、もちろん、僕もそれを演じた。

「ですよね?」と僕はそれに念を押した。「やっぱり、そうか。確か、ええと、あれ・・・・・・ど忘れしたぞ(もちろん演じている)、あ、思い出した。末次さんだ」

「え? 名前、どうして知ってるの?」

「どうして?」と僕は困った。「そういうのって、やっぱ気になるの? 俺がそれをこそこそと何処かで調べたとか思うの?」

 末次さんはぽかんと口を開けたまま、首を振った。「別にそんなつもりでもないけど、あたし、あなたと話をするのは今日が初めてだから。純粋にどうして知ってるのかなって思って」 

 末次さんの言い分の方が正しかった。僕は彼女の質問にいちいち答えるべきなのだろう。でも僕と彼女は、もともと友達でも知り合いでも、他の数ある如何なる関係でもなかったから、彼女の名前を知っているという事実を今ここで彼女に説明するのは、きっと困難だったと思う。僕もそうだけど、彼女はそのことを理解できるまでの年齢に至ってなかっただろうし、お互いそのことを理解できるような年齢なら今日の僕はきっと彼女を素通りしていただろう。もっとも彼女が僕の名前でも知っていたら、もう少し話はわかりやすく別の角度から始まっていたのだろうが、残念ながら彼女は僕の名前を知らないのだからそれまでだ。彼女はただ僕の顔を漠然と知っているだけだと言い訳のように言った。漠然と人の顔を知っているというのはいったいどういう状態なんだろう? 彼女には申し訳ないが僕にはその状態はわからない。だから僕はそこから始める。

 僕は以前、新宿にあるデパートの地下の食品売場で働いていた。そこで紅茶やジャムなど外国の嗜好品を扱う売場で販売補助のアルバイトをしていた。僕はそこで働いている時間がとても好きだった。同じ売場の人間は皆親切だったし、とりわけ商品管理が自分の仕事のように暗に義務づけられているところにやりがいを感じていたし、それに何よりその賑やかな空間に含まれることで多少なりとも社会化していたことが心地良かった。実際そこで働いていたときほど僕が健康だったことはない。そこにいて僕は三分の間に一回の割合で笑みをこぼしたし、同僚のアルバイトの女の子を冗談で笑わせたり、怒らせたり、色々して平気で肌に感じるままの自分を表現していた。どうしてそんなことができていたんだろう? 今になってはまったく考えられないことだけど、たぶん二十三歳という年齢の自分が一番、成長過程において素直な時期だったからだと思う。それは事実で、間違いなく十八歳の自分よりも、五歳の幼い自分よりも、限りなく純朴で素直な時期だった。

 今となればどうでもいいことなのだが、その時、僕には一人、女の子がいた。女の子といっても僕は彼女とはいわゆる恋人として付き合っていたわけではない。彼女は僕が学生の時から仲良くしてくれていた友達で、上京したての頃には色々と世話をやいてくれたりした。もちろん、僕は彼女のことが好きだった。普遍的で、日常的で、つまりは何処にでもありがちなやさしい存在だった。彼女の前では常にありのままの自分でいることができていた。彼女と話すときには言葉を選ぶということがなかったし、彼女も僕の言葉の一つひとつを真に受けるということもなく、お互いに言葉というものを重んじる傾向になかった。そしてその中にいて僕は極めて健康だった。素直に自分を表現してあらゆる意味で僕を隠すことなく、彼女に僕の人間性を提示していた。僕らはときどき、互いは必要不可欠な存在だと言葉にして冗友情を確かめた。そういうことを言葉にするのは何も恥ずかしくなかったし、実際にそういう気持ちはあったと思う。そうだから、ある時、僕は無遠慮に彼女を求めたのかもしれない。彼女はきっとそうしてほしくなかったんだと思う。僕はそうあった自分を単に純朴で素直だったと思っている。でもそれは多分、僕が自由で一方的に健康すぎたからだ。つまり彼女は僕との間にある関係をずっと不健康なものと感じていた。「素直すぎて素直じゃないの」と彼女は僕に言った。

 末次さんはというと、僕のそういう時期、普段から描いているある種の幻想の隣にいた女の子だった。それはどちらかいうと日常にあるフラットな場所ではなく、どことなくリンクしたような場所だった。彼女は僕の売場から、三つ隣の洋菓子の店舗で働いていた。僕は末次さんのことが気になっていて暇があるたび彼女の方向を眺めていた。ときどき彼女と目があったりするのだが、そういうのは往往にして奇遇であって、それには発展性はなく、しかし、その非日常的な場所にある存在が、やはり気にならないわけはなく、彼女にリンクする度、幻想を抱かないわけにはいかなかった。僕は駅で、台所で、風呂場で、ふと末次さんのことを思い出しては「いいなあ」と思っていた。一生懸命、包装をしているときの眼差しや、カウンターケース越しに客と話しているときの感じがよくて話したいなあと思っていた。そうして、こそこそと彼女の名前を調べることで精一杯の満足をしていた。

 電車が三鷹で特別快速電車を待ち合わせるために一、二分停まっていた。反対側の四番線のホームに電車がきたので、末次さんに乗り換えなくていいのかどうかきいた。彼女は僕にどうするのかきいた。僕は乗り換えようと言った。すると彼女は乗り換えないと言ったので、僕も乗り換えないでおくと言った。本来なら彼女は乗り換えたほうがいいのだけど、もはやそれ以上は言わないでおいた。僕はどちらでもかまわなかった。

「ひょっとして俺、この電車を降りたほうがいいの?」

「どうして?」

「経験的にさ」

「どうなんだろ?」と末次さんは考えるふりをした。「正直、あなたがあたしの名前をどうして知ってるのか興味があるな。あたし、そういうの知りたがり屋なの。それをこの電車の時間内で説明できる?」

 僕は頷いた。それから自分の話を少しずつ始めた。自己紹介といえば、そうなのだろうが、それは大きく順番を間違っていた。最後まで、自分がどこの誰で何という名前なのかを彼女には告げることはなく、それ以外のことを話した。第三者がいたら、名前は早いうちに話題になったのだけど、いなかったからしかたない。僕は我を忘れた。きっと彼女との間にある自分の名前を肝要なものだと思わなかったのだろう。というより、もともと顔見知りという僕らの偶発性に名前というものは必要なかった。だからまるで旅先や飲み屋で知らない人間といっとき仲良くするだけように、それ以外のこと、自分の好きな事を話すのに夢中になった。そして彼女も最初から最後までしっかり僕の話を聞いていてくれた。それが心地良かった。

「つまり、こういうこと? 自分がいったい何をしたいのか、自分がいったい何を求めて暮らしているのか、そういうのをひっくるめてまだ自分のことをうまく理解できてないんだよね? その、今のあなたの解説を聞く限りでは」

「自分のことが理解できてないんじゃない。常に前向きな表現で自分を語ることが当たり前になっている最近の若い奴らに同調できないだけだよ」と僕は少しむきになって返した。すると末次さんは小さく笑みを浮べた。「若い奴らがそういうこと言うのよ」

 武蔵小金井の駅で大半の人が降りたので、僕らはシートに腰を掛けた。

「ああ、疲れた」と末次さんはため息まじりに言った。「ねえ知ってる? 電車の通勤ラッシュって凄いエネルギーの浪費なのよ。こないだ朝の東京FMで言ってたんだけど、一般的な社会人が一日に必要なエネルギーの何十パーセントだったかを、この通勤の電車の中で使っちゃうんだって」

「へえ、そうなんだ」と僕は気のない相槌を入れた。「けどそういう、パーセンテージはあてにならないよ」

「どうして?」

「一般的な社会人じゃない人間だって、やっぱり朝の通勤ラッシュじゃ疲れてるんだ」

 末次さんは少しうつむいて、そして微笑んだ。彼女はひょっとしたら僕のこういう口調が嫌いじゃないのかもしれない。つまり、いつも僕が人に嫌われるこういう類いの口調が、そして、いつもの饒舌になっていく口調が。

「たとえ3パーセントでもその人が浪費だと思えば浪費だし、そう思わなければそうじゃない。それに100パーセント浪費だと思う一日があって、俺はそこに疲れを感じない時があるのはどうしてだろう? つまり、その時点でそっちの言うパーセンテージと浪費の関係に俺は含まれていないということだ」

「あなた友達いないでしょ?」

「三人いる」と言って、ちゃんと三人の顔が浮かんだ。

「やけに具体的な数字があるんだね」

「あるよ。そっちのパーセンテージよりはいくらか信用できる」

「たしかに」と末次さんは素直な声で僕に同意した。それから話題を変えるように「ねえ、チョコ食べない? これね、うちの店のなんだけど、けっこうおいしいわよ」と紙袋の中から、厚手の文庫本ぐらいの小さい箱を取り出して、蓋をあけてどれでも好きなのを選んでいいよと言って差し出した。その中から白くコーティングされたのを一つ摘まんで口に入れた。そして、うまいと感想を述べた。「でしょう?」と彼女は調子づいた。

「うちの店ってけっこう男の人も買いにくるの。ねえ、甘いものは好き?」

「わりと好きかな」

「でもあたしはそうでもないのよ。変でしょう? 自分で売っといてさ」と末次さんは苦笑いを見せた。僕は彼女の会話の展開というか落とし方ついて異議を唱えたかったが、それには触れず、ただ、口の中に広がった甘味と苦味の中間を唾で飲み込んだ。

 電車の時間はあっという間だった。僕は末次さんに約束したとおり、電車の時間内でものごとを説明することができなかった。もとより説明することがなかったのかもしれない。立川で彼女は「あたし、次で降りるけど、あなたの家は何処なの?」と訊いた。

「八王子」と僕は咄嗟に言った。たまたま日野の先の駅名で思い浮かんだのが八王子なだけだった。 

 電車が次の日野に着く頃に彼女は、「今日は、楽しかったわ・・・って、あれ? 楽しかったのかな? ん、まあ、楽しかったで、いいか」とセリフにわざわざ曖昧を含んで席を立った。彼女はそのとき一つとびきりの照れ笑いを見せた。僕はそれを生涯忘れることはない。そして電車が停まり、扉がひらいて、末次さんはこっちをもう一度見て微笑んだ。僕がチョコレートの礼を言うと、彼女は「一応、販促を兼ねてるんだからね」と笑って軽く手を振って電車をおりた。僕はその後ろ姿を追って咄嗟に扉の際まで歩み出て、手すりに寄りかかり、顔半分を扉から出して彼女がもう一度こっちを向かないかと期待をして眺めたが、それはなかった。きっと彼女の方は僕の視線を感じているんだ。いつまでも扉から顔を突き出しいる僕は僕で車内の乗客の視線を感じていた。きっと僕の挙動は不審だったろう。まもなく扉が閉まる合図の音楽がホームに流れ、車掌のアナウンスと共に扉は閉まった。同時に、電車はゆっくりと動き出した。

「末次さん!」と僕は大きな声でホームを歩く末次さんを呼び止めた。

「えっ?」と振り返り彼女はホームにいない筈の僕を見て驚いた。

どうしているの?

どうしてだろう?

 正直、どうしてなのか自分でもわからなかった。でもさっきから僕はずっと一人そのわけのわからない時間にいた。第一、僕の家は八王子ではなく、三鷹だった。この時、末次さんもさすがに僕のことを理解したのだろう。彼女は少し困った表情で、僕のこと見つめた。僕は何を言ったらいいのかわからなかった。ただ、その表情に対して、「ごめん」と言わないわけにはいかなかった。

「何? 何か話したいこと? それとも」と末次さんは言葉をつまらせた。

 僕はうん、と頷いたが、正直、具体的に話したいことがあるわけではなかった。「話したいことはないけど、話がしたい」。これは以前、僕が里子に切に訴えたことだ。里子とは二十三歳の僕が好きだった、先述の女の子のことだ。「話はあるけど、それを話すか話さないかは、お互いの会話の雰囲気にまかせようよ。もし、それで言える雰囲気なら話すよ。でも今の里子みたいに最初から話したいことがあればはっきり言えばいいのよっていう言い種は、俺らの関係においてはフェアじゃないよ。もう少し余裕というもんを俺にくれてもいいだろ? そら今じゃ俺らの関係って、崩れてなくなってしまったけど、もともと俺らの会話って、そうじゃないだろう?」

「あたしはあなたのそういう具体的な言葉がないところが厭なの。言っとくけど、あたしのことをあなたが好きだっていうのは、今更、具体的な言葉じゃないからね」

 それ以来、里子と会っていない。そして、今、同じことを末次さんにも問いかけられているような気がした。

「ねえ、そこ座ろっか」と末次さんはベンチを指差した。彼女は幾分、疲れているようだった。僕らは肩を並べて座った。駅は高架したところにあったので、僕らのいるところから日野の小さな町が見下ろせた。閑散とした町の雰囲気に少し自分が非日常的な場所にいるような気がした。

「ときどきこんなことがあるんだ」

 末次さんは「うん」と一つ頷いただけだった。しかし、それはとりわけ僕の行動を責めたものではなかった。別に気にしないでいいよ、という風な頷きだった。

「少し前までね、ずっと好きだった女の子がいたんだ」と僕は訳もなく話し始めた。「どうしてかわからないけど、今は好きじゃなくなった。というか、好きだという感覚を残したまま、彼女と会えなくなってしまったから、好きかどうかわからない。正直なところ俺には異性に対してはパターン化されたものがあって、もともと一目惚れとか、その人の醸しだす雰囲気に恋をしてしまう人間で、第一印象とかに惹かれなかったら、まず好きにならないんだけど、その彼女のことは好きになってしまった」

「みんなそう言うのよね」と末次さんはピシャリと横面を平手で張り上げるような口調で言った。「彼女は特別だったとか、彼はいままでの男と違ってたとか。でも、結局、あなたは彼女を持ち上げてるだけで、彼女は普通の女の子よ。そういうことを語りたがる人に限って、自分が理解されてないとか言いたがるのよ。ねえ、それって違うよ。だいたい、あなたその彼女とは何もしてないんでしょ?」

 それに対して僕は答えなかった。

「そういうの凄く迷惑なのよね」と末次さんは言った。「言っとくけど、そういうのって誰も救われないわよ」

 末次さんの言う意味がなんとなく理解できた。もし自分のことじゃなかったら僕も彼女と同じ意見だったろう。そういうのは凄く迷惑だ。誰も救われない。不健康だし、無意味な関係だ。不潔でさえある。でも、と僕は思う。

「誰も救われない」と僕は彼女の言葉を反すうした。「でも、それは末次さんの学習の成果なのか? つまり経験的にというか、つまり、その、それは凄く的を射た意見だし、そういう事柄って、なかなか本人を目の前にしては核心に触れづらいし、それにほら、一般的に言って女の子だったらそういう男の一途な想いみたいなものはわりと支持するもんだろ?」

 末次さんはそれに対して冷めた笑みを見せ、それが何でもないことのように軽く左右に首を振って見せた。それから膝の上のカバンから、手帳を取り出し、一枚紙を破いて、それとボールペンを僕に渡した。「もう今日は疲れたから帰らせて。もしこれにあなたの連絡先書いてくれたら、この続きは今度できるから」と言った。


 僕はおとなしくケータイの番号とメールアドレスに、今まで言いそびれていた自分の名前を書いた。それとなんとなく市外局番からの自宅の電話番号も書き加えた。彼女はその電話番号を見て、「ねえ、この番号、何処? 八王子じゃなくない?」と言った。三鷹だと答えると彼女はあきれて笑った。もちろんこの時も僕の名前についての話題には何ひとつ触れられることはなかった。

 僕はホームの階段を降りて末次さんが帰るのを改札まで見送りに行った。そして改札の間際に小さい声で言った。

「前から末次さんのことが気になってたんだ」

 それを聞いて彼女はあきれて笑った。「ごめんなさい。そういうのわからないの」

「でもさ、そっちは好きな人はいるの? 付き合ってる人とかさ」ときくと彼女は「好きな人はいないわ。でも付き合ってる人はいるの」と答えた。

 僕は首をひねって半笑いの表情を見せた。「ごめん、そういうのわからないんだ」

 僕と末次さんは、はじめからベクトルが違っていたのだろう。同じことを求めている者同士は、そう上手く惹かれ合ったりはしない。というより僕らは多分、最初からお互いに何かを求めていたわけではなかったのだと思う。もちろん、僕は欲したし、彼女は与えてもくれた。しかし、それは決して需要と供給の関係でもなかった。

 

 末次さんはいつも約束の時間に遅れてきた。僕はいつもピッタリの時間に駅に行くのだけど、彼女は決してその時間までに来たことはなかった。僕はそのことに別に文句を言ったりしなかった。いつも彼女は最初に「ごめんなさい遅れちゃって」というだけでその言葉に発展性はなく、とりわけそれに対して僕は文句を言うことがなかった。もちろん、厭味の一つや二つは言うかもしれないがそれも害のない戯れで、待ったかと訊かれて、待ったと答えるような子供らしいストレートな厭味だった。きっと僕らはお互いに対してそれ程、礼儀とか遠慮というものがなかったんだろう。しかしそれは思慮に欠けるというものではなく、僕らは互いに限度というものを見極め、そして意識していた。意識していたからこそ特別な関係になり得たが、特定の形式におさまることができなかった。少なくとも末次さんの方は僕に何も期待はしていなかった。

 もちろん僕の方は末次さんを求めないということはなかった。僕は早い段階から彼女との性的な関わりにある種の期待を寄せていた。僕の視線は度あるごと彼女のことを見ていたに違いないし、きっと彼女も僕のそれに気付いていたのだろう。だからこそ僕らは上手い具合に限度というものを見極めることが出来ていたのかもしれない。それが証拠に彼女は僕の趣向や性欲とかにしばしば興味を示し、それは必ず言葉になった。言葉にすることが何かの目安だったのかもしれない。そういう風に距離をつめるのが、僕らのような男女の親しさを発展させるには、最もスタンダードな方法だと彼女は前もって知っていたのかもしれない。

「男の子って、やっぱり我慢できないの? そういうの」と末次さんは首を傾げ少し考えるふりをしながら、たぶん頭の中で自分の質問を反すうしたのだろう、自分のグラスを見つめ、それを両手で掴んだまま「あはっ」とはにかんだ。

「どうなんだろう? 我慢できないと言えばできないけど、それって、あくまでも部屋に一人でいるときだからさ。誰かといる時はさすがに我慢するよ。そういう本能的な部分はまあ抑制のきくものだと俺は思うんだよね。見えない努力というかさ。まあ、どうしてもしなくちゃというわけでもないけど、しないわけにもいかない。部屋に一人でいると、けっこうしたくなるんだ。まあ自然の摂理っていうのか」

「あのさ、そういうまとめ方しないでくれる。誰でもやってることだからだとか、本能的行為だとか、そういう学校の性教育じみた説明。あたしはあなたのことを具体的に聞いているんだから、そんな一般的な知識は欲しくないの」

「まるで俺が一般的じゃないみたいじゃないか。でも残念ながら、俺はその点、凄く一般的だと思うよ。個人差はあるけど、普段、昼間っから意味のないところでタッたりするし、自分で処理する回数もまあ健康的な回数だと思う。もちろん、一般的なものさしはないから何とも言えないけど。俺とかは、だいたい一週間に、四回、五回と、まあ最近はわけあって少し多いようだけど」

「いいよォ、そんなの言わなくったって」と彼女は嬉しそうに笑った。

「そっちが具体的にしろって言ったんだよ。でもさ、そんなこと知ってどうするの? もしかして俺としてもいいとか考えてる?」と僕は冗談まがいの声で訊いてみたが、末次さんの眼を見ると酷く自分が卑猥なことを言っているような気がして、コップの水に手を伸ばして一口含んだ。「喋りすぎた」と自嘲すると、彼女はテーブルの下で僕の靴を強く蹴飛ばしてから静かに笑った。

 僕らは末次さんの休日にだいたい新宿の幾つかある喫茶店で二、三時間ぐらい話をした。僕は少し前からアルバイトをかえて、新宿の飲み屋で働いていたので昼間はだいたい空いていて、彼女の都合さえあえば会うことが出来た。彼女の休日は月ごとのシフトによって決まるので、僕らが会うのもだいたいそのシフト通りになっていた。彼女の休日は、だいたいが平日なので、いつもその前日に彼女からの誘いの電話が鳴る。もちろん僕は夜は遅くまで働いているので、彼女からの電話をとるときは、だいたい当日になっている。そうして昼下がりの二時ぐらいに待ち合わせて、アルバイトの時間まで、だらだらと喫茶店でコーヒーを飲む。他愛もない話をしながら。

「外国文学ってやっぱり訳者に対する好みは出てくるよ。といっても好みが出るほど選択肢もないんだけどさ、ただ面白かった翻訳っていつまで経っても訳者の名前は覚えていたりするよ」

「例えば?」

「窪田啓作」

「知らないよ」

「カミュの『異邦人』は読んだ? 新潮文庫」

 末次さんは目を丸くして僕を指差した。「うん、持ってる」


「あれはちょっと好きな訳だよ。別にカミュがとくべつ好きというわけではないんだけどね、あの訳が好きで繰り返して読んだよ。『きょう、ママンが死んだ。もしかしたら昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった』これだよ。それからカズオ・イシグロを訳している土屋政雄。『日の名残り』は読んだ?」

「だからさ、それはきっとあなたが作品にではなく、言いまわしにこだわりを持ってるからよ。普通の視点で読めば、他の作品も普通の評価に値する内容よ。翻訳なんて読めりゃいいんだって言う人もいるんだし、それは過大評価よ。あなたはきっと馴染みのない言葉じゃないと読めないのよ。自分が書く側の人間だから、好きなレトリックを習得しようという頭がどこかにあって、常に内容なんかお構いなしなの。だいたい『罪と罰』の内容なんか覚えてないでしょ?」

 どうしてこういう内容の話をしているかというと前日、電車の中でドストエフスキーを読んでいる高校生を見つけたことを、なにげなく末次さんに話したのが始まりで、それから話が広がってしまった。つまりその時、僕がその高校生を見て思ったことは、ドストエフスキーを読む自分に酔ってるというか、自分もそうだったが、その年齢にありがちな何処となくスノッブなものを感じたということで、それを末次さんに言うと彼女は偏見だと言い出したのだった。

「いやでも、あれは明らかにそうだよ。電車の中で、ドストエフスキーを読むのにブックカバーしてないんだよ」

「別にいいじゃない。ブック・カバーなんかしなくたって」

「よくないよ」と僕は言った。「電車の中で携帯電話に出るのと同じぐらいよくないよ」

「馬鹿じゃないの」と言って末次さんは僕の自意識にはとりあわなかった。「本に対する純粋さというか、他人の文学に対する誠実さが欠けているわ。あなたはつまり自分より若い子がドストエフスキーを理解して読めてるということを認めたくないのよね。自分があまり好い読後感をもってないものだから、そういう風に他の人間にもそれを押し付けてるのよ。だいたい『罪と罰』の内容なんか覚えてないでしょ?」

 それから先程の外国文学の翻訳についての話になり、再びドストエフスキーのくだりに戻ったわけだ。

「『罪と罰』の内容? ちゃんと覚えてるよ。主人公がばあさんを殺して刑務所に入れられるんだろ」

「なにそれ? 随分、ざっくり言うわね? ラスコーリニコフっていう名前ぐらい出ない?」

「マルメラードフ?」

「おっ、出るじゃん」

「スメルジャコフ?」

「それ違うから」

「クラソートキン」

「言いたいだけでしょ」

「何が何だかもう忘れたよ。まあ、それは別に今はいいじゃん。いやさ、読書ってのには、時機というものがあるんだよ。タイミングというかさ。俺はあれを十九歳のときに大学の図書館で借りて読んだんだけど、全然駄目でさ、ページがすすまないんだ。同じところを何回も読んでみるけど意味がわからない。十九歳の頃って何でもそうだった。フローベールもカフカもフィツジェラルドも何もかも、読んでもページがすすまないんだ。おかしなもんでさ。でもね大江健三郎が何かで書いてたけど、読書というものには読むべき時機、タイミングがあるんだ。だから若くて女の子のことばっか考えている時期に無理してドストエフスキーとか読まなくたっていいだろうって俺なんかは思うわけ。それを昨日、俺はあの高校生に言ってやりたかったんだよ」

 僕の言葉はだいたい聞き流している末次さんだったが唯一僕の言葉の中で立ち止まった単語があった。「大江健三郎なんかも読んだりするの?」


「どうして?」と訊いたが、彼女は具体的な話を欲しがっていたので僕は続けた。「大江健三郎は大学時代に少しだけ読んだんだ。高校時代の国語の先生が大江のフリークでさ。高校の時、買って読んだんだけど、案の定、よくわからなかった。そりぁそうだよな。政治についても性についても何にも知らない高校生なんだから読んでもわかるわけないよ。でもね、大学生になって小説を書き始めた頃に『私という小説家の作り方』という本を読んだらどんぴしゃでハマっちゃってさ。高校時代に買って読めなかったのをもう一度、読んでみたらすらすら読めたんだよ」

「読書のタイミングだね」と言って末次さんは微笑んだ。

「そう。大江風に言うとジャストミート」とまた語りだすところだったが、やめた。学生の頃から小説が好きで、自分でも小説を書いているので、この分野の話は尽きることなかった。また末次さんも何処だったかの女子大の仏文科を卒業していることもあって、文学談議が盛り上がるとお互い一歩も譲れない局面があったりして、それはそれで楽しかった。特に末次さんなどは筋金入りで、僕が色々と注釈をつける以前に澁澤龍彦なんかのことを知っていて、そのことを詳しく説明する僕より、自分は詳しいということを全面に押してきたりもした。しかし、実際のところ、僕の世代には(というか僕の周りに限ってだと思うが)こういう文学的趣味のない人間ばかりだったので、末次さんのようなフリークは貴重な存在だった。僕はよく末次さんに、「君も小説書きなよ」と勧めたりもしていた。その都度、彼女は僕が冗談ばかり言っていると言わんばかりに笑っていた。僕はしばしば人に小説を書くように勧めるのだが、彼等の多くはどうも方法論が大きな壁になっているようで、決して彼等は机に向かって文字を並べることはなかった。もっともそういう人間は如何なる小説を読んでも、ある程度楽しいだろう。末次さんが言うように僕は多分、書くことの比率が重いから、小説に関わるあらゆることに寛容になれないのだろう。だから、どうでもいいことなのに電車の中でブックカバーをせずにドストエフスキーを読む人間をマナーのない人間だと決め付けてしまうのだろう。仮に彼がこっそりそれを隠して読んでいたら、きっと幾らか好感を持っただろうが、こっそりなんかしていたら、それが何の本なのかわからないわけであってはじめから僕の好感というものは彼には向けられることはなかったわけで、だからこそ末次さんのような文学少女に出会うことは万に一つの確率なのだと信じていた。

 僕と末次さんはそういう風にお互い二十四歳の春から夏にかけて時間を過ごした。そうしてその間に、僕も末次さんも二十五歳になった。末次さんが梅雨の入りの六月に誕生日を迎え、僕が梅雨の明けた七月に誕生日を迎えた。彼女の誕生日にシェル・シルヴァスタインの『ビッグ・オーとの出会い』という本をプレゼントした。高価なものを贈る余裕がなかったのと、彼女の趣味がいまいちわからなかったのと、僕と話をしてくれて、退屈しないぐらいの心の広い人間ならこの本をもらっても迷惑ではないだろうという料簡があったのと、単純に自分の好きな本を女の子に贈りたいという趣向があったのでこの本を贈った。もっとも本の感想については何ひとつ彼女から聞かされることはなかった。それでも僕の誕生日には、彼女の家に招いてくれ手料理を作ってくれた。

 末次さんの家は日野駅から甲州街道を新宿方面へ少し歩いたところにあった。その日、日野駅についてから末次さんに電話すると、彼女は「今から迎えに行くから、こっちへ歩いてきて」と言った。

「こっち?」と僕は言った。「こっちって、どっち?」

「新宿方面」と彼女は言ったが、僕はわからないと答えた。すると彼女は少し口調を変えた。

「ねえ、目の前にハンバーガー屋さんがあるでしょ?」

「ない」

「あのさ、何処から電話してる?」

「二番線というか、一番線というか」

「まだ駅のホームなの?」と彼女は声を荒げた。「何してんのよ。はやく降りて。あたしもうそっちへ向かって歩いてるのよ。改札を出たらすぐにフレッシュネス・バーガーがあるから、そこにある大きい通りを新宿方面に、じゃなくて、こっち、じゃなくて、ええと・・・ッ(※舌打)」

「わかるよ。そっちへ行きゃいいんだろ?」と言って電話を切った。それから彼女の言う通り甲州街道を歩いた。しかし、そのあたりは街道といっても名ばかりで、彼女が大きい通りと言うほどでもなく、実に狭苦しい道だった。そこを大きなトラックが何台も続くのだからかなわない。だいたいどうして一人でこんなところ歩いているんだ? 駅まで来いよ。どういうつもりだ、末次ッ! とか、意味のない文句をブツブツとやりながらしばらくそこを歩いていると、前から凄く好みの女の子が歩いてきたので少し得した気分で、すれ違いざまによくする視線をチラリチラリとやったが、何のことない、それは末次さんだった。彼女は僕を見て、「なにそれ、わざと?」ときいたが、本気で違う女性だと思っていた。

「近眼と自意識をたして2で割った視線」

「意味がわからないから」と彼女は僕の言葉を退けた。

「あれ、今日はなんか感じが違うぞ」と言うと、末次さんニッコリと微笑んで、「わかった?」と答えた。それ以上、その話題を発展させてもその方面の知識がないので続かないと思ったので「わからないよ」と流した。末次さんはその日、珍しくスカートを履いて、白のシンプルなサンダルで、白のプリントTシャツを着ていて、僕などは胸の膨らみを意識しないわけにはいかなかった。そして化粧がいつもと違って、少し若い女の子がするような(といっても末次さんも充分、若いんだけど)頬に遊びの色をいれていて、僕はわりとそれが好きで、普段でも電車の中ではよく注意して見たりしていて、身近にいる女の子がそういうのをしているとなるとやはり得をした気分になり、嬉しくて微笑まないわけがなかった。服装からして、末次さんは二、三歳ぐらい若返って見えた。学生みたいだと言うと、「そっちこそ」と彼女が返したので、僕は髪の毛を掻きまわした。彼女は僕の髪の毛がむさくるしいとけなし、ジーンズとレモンのポロシャツを誉めてくれた。顔については採点がされなかった。

 僕らは立ち話をやめて、狭い歩道に肩を並べて歩いた。しかし東京の道とはだいたい何処でもそうなのだが、女の子と肩を並べていると必ず、ちりんちりんと後ろから自転車で運転の下手くそな邪魔が入る。そうしてその度、僕らの楽しい会話は途切れるのに「ごめんなさい」の一言もない。その都度、末次さんを見て苦虫を噛んだ。そういうのが何台も通り、半ば会話を投げ出して、自転車に敵意をむきだしにして歩いた。僕が一台一台に丁寧に一言ずつ小声で文句を入れるものだから、末次さんは声を出して笑った。彼女はたぶん、僕のこういう小言というか、ツッコミというか、ある種、悪ぶれた口調が好きだったのかもしれない。前も喫茶店か何処かで、僕の素朴な文句を絶賛していたから。

 彼女の家は、街道沿いの住宅の、一人暮らしの女子学生が住むようなマンションの三階にあった。彼女はそこに学生の頃から住んでいた(らしい)。「大学がこの近くだったの。就職して落ち着いたら、もう少し都心へ近づこうと思ってたんだけど、いざ更新の月が来た時、面倒くさくなってね、もうしばらくいいかなって感じで更新したの。それにほら、ここって多摩川近いし。けっこう好きなの、この辺りで過ごす一人の時間。あたし、一人で過ごす時間がないと駄目な人なの」と彼女は言い訳でもするような調子で話した。

 僕は頷いただけで、何をどういう風に返せばよいのかわからなかった。ただ、一通り彼女の部屋を見る限り、彼女も、質素ではないが決して派手な暮らしもしていない真面目に働く、極々、普通の年頃の女の子で、その女の子が、「一人で過ごす時間」のことを真剣に考えていることに僕は特殊な興味を覚えた。というのは、これは確か以前に彼女が僕に言ったことなのだが、彼女には付き合っている男がいる筈で、僕はその男に対しては特に悪いとは思わないとしても、彼女に対してはやはり僕のような意味付けのない男を部屋にあげていいのかどうか、そしてそれはやはり彼女にとってはある種の罪意識を抱かせるのではないのかという古風な疑問があったからだ。しかし、そういう彼女の「一人で過ごす時間」を全ての寛容な人間が尊重するのなら、今、あらためて、そういう疑問もない。つまり僕との時間が彼女にとっては「一人で過ごす時間」になっていたのではないかとあるとき思ったからだ。もちろん、僕自身はそういうものに馴れていないので、二人でいることに居心地の悪さを感じたこともあるが、結局、それがもっとも正しい考え方だと思うようになった。

 その日に一度、末次さんとセックスをしてしまうと僕らは堰を切ったように、その行為を繰り返した。夏から秋にかけての僅かの間、僕と末次さんは、およそ彼女の勤務シフト通りに、普通の男女のするその回数より少なくない数をこなし、その間、お互いに無言のやりとりの中に何かしら、愛に似た何かを感じ取っていたのかもしれない。以前は、新宿の喫茶店で落ち合っていたが、この頃はもうそこまで足を伸ばすことはなかった。二人は彼女の休みの真っ昼間から、彼女の部屋でカーテンをしめて、ときにはユニット・バスの中で、飽きるぐらい汗をかいた。もちろん、その行為自体に飽きることはなかった。僕も末次さんも(無論、彼女については僕の臆断だが)、この歳までそれほど性的な経験を重ねているというものでなかったので、お互いの身体にやはり、特別な感情があったのかもしれない。それは馴染みというものなのか、僕に限っては彼女の身体が好きだった。昼の明るい光の中くまなく彼女のことを探り、限りなくそのディテールを愛した。そうして一方で彼女は僕のことを平均以下だとか侮辱したりしていたが、気にならなかった。その度、「こういうのは相性なんだ」と強がった。それでも僕は男でそれが気になったときは、それなりに窺いをたてたりもした。いま思えば、なんとも恥ずかしい話なのだろうが、そういうピロー・トークの類いもセックスの一環だと思えばそれはそれで僕の技術と言えば、悪くもなかったのかもしれない。

「ねえ、ぶっちゃけ俺はどうなんだろう? その、いいとかわるいとかで言うと・・・・・・」僕はそういうセリフにある種の快感を得ていた。そして、「さあ、どうなんだろろね?」という彼女の返しにさえ、快感を得ていた。

「女の場合はね、回数を重ねれば重ねるほど、快感は増すの。・・・・・・たぶん」と末次さんが言ったので、僕は「たぶん?」とその言葉で立ち止まった。彼女のセリフの中にたぶんがあるのとないのでは、意味がぜんぜん違う。が、それ以上は聞かないことにした、聞かないほうがこの先の快感は増すだろうから。

 そういう風にいったん盛り上がると彼女といることはやはり、至福の時間に感じられ、彼女の時間を想像すると、不思議でならなかった。僕が彼女と会っているのは、彼女の仕事の休みの日で、僕は夕方からアルバイトに出かけるわけで、その僕と別れた後の時間に彼女が誰かと会っていることを間違いない事実だと信じていた。彼女は僕とセックスをした後で、その男とセックスをしているのだろうか? わからない。けれども、僕はしていないと思う。もちろん、それは僕の願望であるから、していないと思うのは当然のことだろうが、たとえしていたとしても、それはやはり恋人としての定期的で儀式的なものではないかと、僕のように末次さんと本能的な関係を持っている人間は思うのだ。もちろん、これも願望で、もしくは欺瞞だった。そのくせ彼女にはその何処の誰かも知らない男のことを話題にしたことはなかった。以前から、気になってはいたが、彼女はそれを話そうともしないし、僕もそれを聞きたくもなかったので、いつもその存在を意識しているだけで、時間が経つにつれて、その有無を確認することは億劫になっていた。それで、その男の存在は僕と末次さんの間では暗黙の了解になっていたのだが、はたしてその男は本当にあの夏の盛りの二人のセックスの合間に存在していたのだろうか、今でもそのことを疑っているのだが、しかし当時は、やはりその存在を否定することは出来なかった。

 ある日、二人の休みが重なり( それは二人で過ごす時間が始まってから、その日一度きりだったのだが )二人で映画のレイトショーを観に行こうと誘ったんだけど、末次さんは少し、途惑って、それから、何度も何処か知らないところへ電話をしていて、なかなか僕の誘いに頷くことはなかった。結局、その日は二人で出かけたんだけど、その間、彼女はずっと浮かない顔をしていて、どうしたのかと訊ねると、ますます浮かない顔で微笑むだけだった。それで、しかたなく新宿の駅で、映画はやめようということになり、半ば喧嘩をするような感じで別れた。しかし、それはその日限りの出来事で、次の週の休みにはまた同じように昼下がりの時間を共にしたので、それにとくに気にせず済んだけど、そういうことがあったので二人の関係をやはり単なる時間ではないかと考えるようになったのも確かなことだった。

 里子に再び会ったのは、僕と末次さんの時間が幾分の翳りを帯びた頃だった。正確にはそういう状況の発生は、里子のそれと時間的には重なるわけだが、とにかくそれは夏のような秋のような、九月半ばのことだった。八月の残暑見舞いに里子から、ハガキを受け取っていて、ついつい返事が送れたが、九月になってからそれに対する返事を書いた。普段なら、僕の手紙は思っていることをすべて書くものだから文自体は長くなるのだが、それに対しては非常に短く返事をした。

『前略 もう連絡をくれないものだと思っていたので、ハガキが着た時は笑ってしまった。しかし、返事をするときにはさすがに笑いもとまった。何を書いたらいいのかわからない。できれば会って話がしたい。昼間はだいたい家にいるから。 草草』 

 それを書いてから、ちょうど一週間後に里子から電話が鳴った。その前日、僕は末次さんのいつもの電話に初めて断わりの返事をしていた。その日は里子に手紙を出して、ちょうど一週間になる日で、翌日は土曜だったので、もし里子が電話をしてくるなら、休日の土曜、日曜のどちらかだろうと考え、末次さんに嘘をついた。「明日は久しぶりに友達の家に遊びに行くことになってるんだ」。電話口で、末次さんは「あ、そう、じぁ、まあ仕方ないな。明日は久々に一人で多摩川か」と調子よく答えたが、それは僕が嘘をついていることに気付いてない振りをする彼女の浅はかな声色だった。

 普段から彼女は僕に、例の恋人のことから、何から何まで嘘八百並べていて、罪悪感がない様子だったから、僕の場合も気にならないと思ったが、それでも僕のついた嘘にはやはり敏感に反応を示した。もちろん、僕も彼女に今まで、嘘の類いは何ひとつ言ったためしがなかったので、さすがに動揺した。どうして嘘をついたのだろう。何故、里子とのことを隠したんだろう。これまでの二人の調子なら別に話しても何ひとつ支障はない筈だ。むしろ話したほうが末次さんに対して楽になれたかもしれない。でも、里子に手紙を書いたことも、その土日に里子からの電話を待つために家にいることも隠した。

 僕はそうしたことを今でも後悔している。何故、この微妙なわだかまり(末次さんを恋人と呼べない自分)を解消するべく、里子の電話を待っていたんだろう。結局その夏にハガキをもらった時点に僕は里子を過ぎていた。記憶の中だけの里子しか僕には響かなかった。僕と里子の間には便宜的な会話と白々しい回想しかなかった。

 土曜の昼過ぎに里子から電話があり新宿駅の南口の改札で待ち合わせた。まったく僕という人間はバリエーションのない男で、女の子と会うとなったら場所は新宿しか思い浮かばない。もっともこの日は里子が場所を指定してきたけど、これが里子の僕の優柔不断な才覚を暗に見越しての提案だったことは言うまでもない。「じゃあ、いつものところでいいかな?」と里子は言った。「うん、そうだね」と答えた僕は、「いつものところ」という響きに妙な違和感を募らせ、それがもう半年以上も前の時間の習性だということに気付き、直ぐさまある種の反感を示さないわけにはいかなった。もちろん、それは里子に対する反感だった。最後に「会いたくない」と言ったのは里子だった。それを無理矢理にして理解をした僕がここにいて、その後の僕を里子が一寸も想像してないのがこれで明らかになったからだ。もう、いっさい里子の中途半端な好意に酩酊するつもりはなかった。とは言うものの「いつものところ」と言われて、「いつものところって?」と訊きかえす勇気も自尊心も持ってはいなかった。

 そうして、そういったことをひっくるめて人生を大きな海に喩えると、今頃、里子という女はそこにポツンと浮いている小さなまさに溶けかかった氷山の一角にある存在になりつつあった。ジグムント・フロイト風に言うと、それは膨大な無意識の中にある僅かな意識とでもなるのだろうか。もっともそれは解釈の方法によるものだが、はたして僕にとっての意識が里子に働いていたのか否かということはこの場面、つまり彼女と会してまず始めの「久しぶり」が言葉になるまでは確信が持てなかった。里子は待ち合わせの時間を少し遅れて来た。僕は五分前にはそこにいて彼女が遅れてくる瞬間を見届けた。

「久しぶり。やっぱり遅れちゃったね、ごめんなさい」

「久しぶり」と僕は平静を装ったまま答えた。このとき既に自分の描いていた里子像が崩れていくのを感じた。そうして自分の肩から思いも寄らぬ力が抜けていくのを感じた。以前は僕を苦しめた類の意識はもはや里子の面前では表れることはなかった。もちろん、それはわかりきったことだった。僕はもともとこういう結末を理解している人間で、次にとった思考回路は末次さんへのホームシックに似た感情を抑えることだった。僕はある一つの事柄に大きな後悔をした。まずこれが第一段階だった。実はこの日まで、自分の中に感じていたある強いひっかかりは里子に対する意識ではなく、末次さんに対する強い無意識だったのだ。「しまったな」と思った。なんの脈略もなくそう思った。里子という病を回避したことで、喜んでいる余裕はなかった。

「少し痩せた?」と里子は幾分身体を傾けて僕の全体を見回すように訊いた。

「痩せた? どうかな。精神的にはかなりスリムになったと思うんだけど」と僕が言うと里子は下を向いて吹きだすように笑った。きっと彼女に対する未練の当てつけだと思ったのだろう。よしその半分は僕も認めよう、しかしその半分は全く里子の見当違いだ、これは末次さんとの激しい運動に汗を流したからだと言いたくなった。それから僕らは少し歩き、西口にあるスターバックスに入った。

 里子は以前より増して女の色気のようなものを身に付けていた。服装も多少、高価な感じになっていたし、マニュキアも絵なんかになっていて、髪型から化粧まで以前とは違って少し垢抜けたようにも見えた。もっともそう見えるのは僕が里子に対して以前のような親密な感情を持っていなかったからだというのも明白な事実だった。僕のよく知っている友人ならこういう局面の後きっと「あいつは変わったよ」と吐き捨てるように言うだろう。これは負け惜しみという感情だと思うけど、僕にとってもやはりそうで、彼女の容姿を見ていると密かに今の里子と付き合っている男に対して嫉妬のようなもの(もはや嫉妬として断言してもいいだろう)を感じた。だからそれを認めてしまうのは悔しいのでこの後、誰に会ったとしても里子のことについて「あいつは変わんないよ」と言ってやることに決めた。こういう局面にあって、感情を交えない正確な記述は非常に難しいけど、里子は僕と仲良くやっている時点から考えて、数段と女に磨きをかけていて、話すことにも機知に富んでいて、僕などは「へえ(クソッ!)」と思い、やはり今付き合っている男が僕よりもちょっと年上の奴なんだろなと思いつ、里子にはその類のことをいっさい質問することはなかった。これも同じでこういう風に感じるのは里子との間にあるものが明白に「距離」になっていて、彼女のことを身近に感じている時は、これは僕にとってはいつか辿り着く「道のり」という概念だったのだが、時間を経て見つめてみるとやはりそれは「距離」以外の何ものでもなかったとなんとなく感慨深いところへ自分を誘導しているのが目に見えて厭になった。思えば遠くに来たもんだ、と簡単に思えれば僕も大人なのだろうなと考えつつも里子を眺めては彼女に対する未練のようなものが山積みにしてある自分が目に見えてやはり厭になった。厭なことばかりだった。過去に想いを馳せた女に会うということは碌なことがないとある種の経験則で知っていた僕だったが、この日もまた同じ後悔という海に辿り着いた。

「ねえ、まだ小説は書いてるの?」

「まあね」と僕は答えた。もちろん僕はそれ以上の言葉を次がない。この手の質問の中で見落としてはならないのは相手の関心が何処にあり、それがどういう形のものであるかを知ることだ。即ち、彼女の関心が、小説にあるのか、僕にあるのか、僕の書く小説にあるのか、小説を辞めてそれ以外のことを遂行する僕を検出することにあるのか、それとも単に二人の話題に共通項を見出すことにあるのか。そして里子の関心は僕にとってはあまり喜ばしいものではない。彼女も含めそうなのだが、僕と関わる女の子は僕の小説に対する熱を快く思っていない。というか、僕にとって小説はない方が良いとさえ思っている。そのことを僕が指摘すると彼女たちはそれには一応、否定の意を示すが、その都度、彼女たちが自らの過失(それは無意識の中にある願望とか意思めいた関心)に気付いて否定したことを見逃さない。その典型とも呼べるのが今の里子のような質問で、僕はいちいちそれに真面目に答えない。彼女の質問はある種、僕を苛立たす為のもので、第三者がいてそれを隣で聞いているだけならこの解釈は僕の側の被害妄想だと思われがちだが、これが里子との二人だけの会話になるとこれはあくまで里子の攻撃なのだ。里子もそれはわかっていての行動なのだ。僕の気持ちを手玉に取った彼女のサディスティックな内面がときどき僕の過敏な神経に柔らかい鞭を打つのだ。どうして里子に小説のことを聞かれるのが厭なのかを言うと、彼女にはまったく小説の存在理由が理解できてないからだ。いや小説だけではなくあらゆる分野において彼女の判断は軽率きわまりないものなのだ。彼女の中では小説は豊富な知識と経験と、生まれもっての才能が書かすものだと信じていて、それ以外の小説的な要因はまったく無視しているのだ。つまり僕が書き始めてから最後の一行に辿り着くまでの酩酊したものと覚醒しきったものと間でようやく獲得したレトリックのようなものを僕の既に備わっている才覚が書かしたものだと思っていることが彼女の最大の間違いなのだ。僕の言いたいことは、僕は小説を書くが、それは小説という存在が僕に働きかけて僕を誘導して書かしたのであり、僕が小説を書くという行為には、常に小説が先に存在していて、その小説というフィルターを通してのみ僕が小説の恩恵を受けるということなのだ。僕がある小説を作成したということは、同時に僕はその小説を通過することによって小説以後の僕という人格が作成、或いはソフィスティケイトされるということなのだ。この小説の恩恵を里子は鼻で笑うかの如く冷淡に解釈して、僕にそれを譲らない。つまり僕を否定して、おまけに小説も否定してしまうのだ。

「自己満足には限りがあるよ」と以前、里子は僕との議論の折にそう言った。

「他力本願の出来レースを走っている優等生が言いそうなセリフだ」僕はそういうふうに答えたと記憶している。「それは里子が自分というものを絶対的な存在として考えているからだ。里子は自分が居なくなったら世界も一緒になくなると思っているんだよ。でも、それは大きな間違いだ。世界は里子が生まれる前からもあったし、おそらく里子が居なくなってからもあると思うよ。俺の言った小説の恩恵を、自己満足と簡単に言ってのけたのは、俺が自分を中心にした視野で小説の存在を語ったんだと里子が認識したからだよ。それだけ里子の視野は、というか世界は狭いんだ。もちろん、俺も俺の幸福を考えて俺中心の生活を送っている。でも、それは凄く限定された次元の話だ。そんなの月曜日から日曜日の出来事にすぎない。身のまわりにあるモノ、ないモノの目線から見たら、俺なんてほんの一部だ。実際、俺は小説に対しては、そこに関わる自分というものは長い小説の流れの一部としか思っていない。正直、そこそこのものが書けるようになったとし、それが本になっても、俺はちょっとした支流になるという可能性以外のことしか今の時点では考えられないんだ。口では小説で天下を取るとか言ってるけど、そういうのは単なる遊びで、冷静に考えてね、俺はどうがんばっても小説以外のものにはなれないんだ。小説の恩恵を受けつづけるのみ、つまり小説より大きくなることはないということさ。これは別に小説だけのことじゃない。あらゆる世界に対して言えることだ。少しでも世界が知りたければ、まず自分がその一部にならなくちゃいけない。そういう人の努力を知らないで、文学賞だとかデビューだとかを簡単に口にする人間こそ、自分という絶対的な存在しか知りえない世間知らず、そしてそれ以上知らなくて良いと思っている自己満足のブタなんだ。里子はきっと何十年先になっても俺が名も知られてない小説家だと知ったら俺に同情したりするタイプの人間だね。もちろんそれも一つの世界観だ、でも俺の周りにはそれ以外の世界観を持っている人がたっぷりいるから、やっぱり世界は色々あって素敵なんだろうな」

 と、こういうような会話がしばしば里子との間にあり、彼女の方から僕から離れていった。で、離れていったからこそ里子になんとか理解を求めようと以後、執拗になり、彼女を真剣に求めては、関係の糸はもつれて、修復不可能な折に里子から「会いたくない」と言われ、納得した僕は壊れて、現在に至る。

 もちろん、現在に至る一歩手前の出来事として末次さんとの出会いを忘れていない。

 もはや何もかもが終わったんだ。というような悲観的なもので里子と僕との関係性を捉えているわけではない。これは末次さんが最初に言ったセリフと重なるのだが、結局、僕が一人で里子を持ち上げていただけで、ほとんどこれは僕の思い過ごしでしかなかった。里子と共有していると感じていた時間は僕だけの時間で、里子にとってそれはただ過ぎていくだけの時間で、今までもこれからもそこにはいっさいの感情が生まれないということを僕なりに理解できたということだった。里子に対して持っていた感情の記憶は、末次さんの思想上ではもともと存在しなかった記憶でしかなく、そのことを小説の恩恵を受けているという世界観から説明すると、そういう記憶を持った僕こそが里子に里子以上のものを押し付けた視野の狭い人間で、自分は絶対的な存在になり自己満足なブタは里子を里子以上のものにしていたのだ。僕がもし里子の恩恵を受けていたとしたら、里子以上のものは求めてはならないのだ。「そういうのって誰も救われないわよ」と末次さんは言った。そして結局、この日に何もかもが終わってしまったというより何も始まってなかったことに気付いた僕は、改めて末次さんの言ったセリフに成熟した女の魅力を感じて、というか単に恋に焦がれてか、末次さんに傾倒していくようになった。こういう順序に対して何か白々しい男女のいやらしさのようなものを感じるのが常なのだが、ここでまた潔癖を証明しようとすると無駄に言葉が多くなって、キレイにキレイに見せかけると胡散臭い関係性が素直な感情を害する。だから、ここはすんなり末次さんに正直に「好きになった」と言うしかない。しかし、これが自分に対して非常に難しい。「好きになった」と言うと前は好きじゃなかったのかという疑問になるし、「好きだった」と言うと嘘になる。「好きだったことに気付いた」と言うと自己顕示力の強い内面の存在を相手に露呈してしまい、男女の共同作業においてこれは不当な言葉として見なされる。「素直すぎて素直じゃない」と昔、里子が言ったのもこういう不当な告白を僕が重ねたからだ。自分に対して素直な言葉は相手に対しては素直ではない時が多々あるのを僕は里子から学んでいた。では、いったいどうしたらいいのだろう? 里子との会話の間にずっとそのようなことを考えていた。冷静にここから見積もって僕は二つに一つだ。自分にとって何の意味のない末次さんとの時間を肯定し続けて自分を誤魔化していくか、また僕という絶対的見地に一度立って末次さんを求め、末次さんという女の新たな意味付けの為に堕ちていくか。そして、この時点で僕は既に堕ちていくしかないのだろうということを理解していた。つまり、つきあいたい。だから僕は堕ちていく。こういう言葉使いしか出来ない僕は(ほんとは新しい恋の発現に照れてるだけなんだけど)、今、その堕ちていくという原因の中にいるからで、実に僕は得意げで、その渦中にあってその速度の緩慢なことと目的地より行程にこそ快感があることと最終的には堕ちきらない自分を知っているからで、即ち若いというカオスのなかであらゆることに対して責任逃れをしているからだ。

 それから里子と僕はスターバックスを出て、新宿駅周辺をフラフラと歩いて夕食をする店を選んだ。駅を一周した所で結局、駅ビルの中にあるスパゲティ屋に入った。お互い快活に話をし、笑って、それなりに満足した。もう何も話すことはなかった。しばらくして店員がラストオーダーですがとやってきたので、僕らはそれじゃあという感じで店を出て、なんの発展もなく駅の改札まで歩いた。里子を京王線の改札まで送り自分は中央線で一人家路についた。いったい何の意味があったのだろう? 帰りの満員の電車の中で酔っ払いの臭い息に顔を背けながら、ずっと考えていた。もう、こういうのはやめておこう。こういうのは何の意味もない。意味を求めては失敗する。この日も結局、何の意味もない一日だった。もちろん、それはもう一つの出来事にクローズアップしないという僕の身勝手な解釈でのみ意味のない一日だということで、実際の僕はそのことを無視することはできなかった。

 もう一つの出来事。

 それは閉店まぎわのスパゲティ屋を出てから里子と二人で歩いている時のことだった。店はビルの八階だったので僕等は下りのエレベーターを待った。楽しそうな二人のままだった。扉が開き満員のエレベーターの中に入るとすぐに妙な視線を感じた。そのうち薄ら薄らとそこに知っている顔が同乗していることに気が付いた。間違いがなかった。末次さんだった。知らない振りをしていてもよかったのだが、ある事柄を確かめたかったので身体をよじって彼女に一つ挨拶をした。

「今日休みじゃなかったの?」

「なんの話?」

 末次さんは笑顔でそれに答えた。それきり僕には里子の問いかけに答えるよう促し、自分は一緒にいた連れの女の子との会話に集中した。頭の中が真っ白になるのを感じた。一階の小田急改札前に降りたとき、末次さんは僕と再び目があった際に軽く会釈をし、口元を緩くほころばして無口に人ごみの中に消えていった。里子は僕を見て「さっきの人なんか変な感じだったけど、なんかあるの? もし、なんだったら行ってきて説明してこようか?」と言ったが僕は大丈夫と言って、最後の里子との一時をやり過ごした。いったい末次さんに何を弁解するべき事柄があっただろうか。末次さんを前にして、今の僕にやましいことは何もなかった。僕らには互いの時間に対する縛りはなかった。堂々としていればよかった。ただ、僕には末次さんにこれから伝えるべきことが一つあった。それは、こういう奇遇がないことを前提に少し前から考えていたことだった。それは後ろから駈けていって、息を弾ませながら、彼女に伝えるようなことだった。はたして僕は弁解するべきだったのだろうか? しかし、このとき弁解に努めようとしなかったのもきっと心の奥底にはこういう契機を恐れては待ちわびている不埒な部分があったからだろう。

 その日から末次さんからの連絡が来なくなった。一週間経っても、二週間経っても、いつもくる筈の電話は鳴らなかった。僕は末次さんに会いたくて堪らなかった。しかし僕は彼女の携帯電話の番号しか知らないので、色々な経験上こういう時は始めからこちらから連絡をとるのは無理だという判断を下していた。もちろん僕はそれに何度か電話をした。しかし彼女はやはり電話には出なかった。僕はそうなることははじめからわかっていた。それから数日後、その電話番号は僕の期待したとおり不通になった。

 秋が過ぎて、十二月になっても末次さんからの連絡が来ないので、僕は休みの日に新宿まで出かけ、彼女の働くデパートのお菓子売場をのぞいてみた。もちろん彼女はそこにいた。以前と何も変わらない様子で元気に働いていた。ちょうどお歳暮ギフトで、デパートは繁忙期を迎えていて、彼女の店もその周りの店舗も、小金持ちの主婦で混雑としていた。僕は少し当時のことを思い出した。その近くの売場にいて僕は横目でチラチラと彼女のことをいつも盗み見していた。そういう記憶にある種の新鮮さを感じながらも、彼女の前まで歩み寄った。隣にいる従業員に気付かれないように彼女は僕にいらっしゃいませと義務的な挨拶をした。それに一つ頷いてから、鼻先を人差し指で掻き、ショーケースの中のチョコレートを眺めながら末次さんと話をした。

「電話がつながらないよ」

「知ってる」

「もう話をしてくれないのか?」

「どうして?」

「どうしてって、普通はそう思うだろう?」

「あたしはあなたがここに来るのを待っていたのよ」

 すると卒然、末次さんは普通の店員の態度にもどって僕を促がした。他の従業員の視線を意識したのだろう。それで僕は、白々しくそれ下さいと言ってショーケースの中を適当に指差すと、彼女は僕の指先を誘導するように別の一番小さい詰め合わせを指差し「これ?」と言った。彼女は普段、見せたことのないような笑顔で、目の前でその箱を上手に包装してくれた。そして袋に詰めて、それを僕に渡した。その際、彼女は小さな声で、「今日仕事が終わってから、いつものところへ行くから」と言った。僕はありがとうと頷いて、ポケットから財布を取り出して勘定をしようとしたら、彼女は「いいから、行って」と言い小さく追い払うようなジェスチャーを見せたので、その場を速やかに離れた。しかし、売場を後に少し歩いてから彼女の言う「いつものところ」がいったい何処なのかわからなかった。

 外に出て、末次さんの言う「いつものところ」を探した。どこだろう? 僕らは外で会うときはだいたい新宿で会っているが、同じ店に二回入ったという記憶がない。待ち合わせ場所も様々で、南口のフラッグ・ヴィジョンの前だとか、中央東口の交番の横だとか、紀伊國屋の外国文学の棚の前だとか、そのとき興行中の自分が一番くだらないと思う映画の看板(中央東口)の前だとか、およそいつも違う場所だった。いったい彼女は何処を指していつものところと言ったのだろうか。彼女の家? まさか。きっと彼女は僕を試しているんだ。西口の公園まで散歩がてら歩き、ベンチに腰を掛けて彼女からもらったチョコレートを一つ二つ摘まんだ。いつもの六個入りの厚手の文庫本ぐらいの箱に記憶があった。その中にあって、やはり白くコーティングされたのが一番好きだった。初めて末次さんと話した時、電車の中で食べさせてくれたチョコレートだと思った。そうして一つの名案が浮かんだ。というか、それ以外に彼女と会う場所はもうないだろう。おそらく彼女が「いつものところ」と言った場所が何処なのだかわかった。それでいったん家に帰った。本を読んだり、小説を書いたり、食事をしたりして時間を潰し、それから彼女の帰宅の時間より少し早めに日野の駅に向かった。確信に近いものがあった。彼女にとってここはいつものところだ。それに、そこで待っている以上、帰路につく彼女を見付けることが出来ただろう。僕はホームで彼女の電車を待った。いつしか二人が肩を並べたベンチに腰掛けて、ゆっくり彼女のことを待った。来るか来ないかわからない相手を待つというのは酷く日常性の欠いた行為だった。そうして、うつむきかげんの僕の目の前にコンバースのオールスターがピタリと足を止めたとき、ホームの時計は十時をまわっていた。僕は末次さんを見上げた、彼女は黙って、僕の隣に腰掛けた。

「いつものところがどこか全然わからなかったんだよ。それで、仕方なくここで待ってたんだけど、寒いからもう少しで帰るところだった。でも末次さん、来た」と僕は頭の中で思い浮かんだ言葉を並べた。

「きちんと話をしようかしないでおこうか迷ったんだよ。それで、あの時は仕方なくあんな出鱈目言ったんだけど、やっぱりあなたはいたの」

「来ないなら来ないでそれでよかったんだ」

「そうよ、いなくてよかったのよ。どうして居るの? そして、どうしてあたしはここに立ち止まったのよ?」

 その会話の中、僕らは互いにクスリとも笑わなかった。多分、本気でそう思っていたんだろう。

「末次さんにね、一つ話があるんだ」

「それはこの前の話の延長上にある話?」

「かもしれない」と僕は言ったが、「でも、この前のことは多分、今、話したいことじゃないと思う。もうその事柄からは具体性はなくなったんだ」と自分の気持ちを補った。

「じゃあ、特別話したいことでもないんだ?」と末次さんが言うものだから、僕は「いや、あるんだ」と言わないわけにはいかなかった。

「ある?」

「うん」と僕は答えるだけだった。僕らの前を、後ろを、電車が何本もやって来ては通り過ぎた。その度、ひんやりとした風が二人の鼻をかすめたが、十二月のこの夜のような静けさと、閉塞感のある夜風に誰かと一緒に吹かれているのが、けっこう好きだった。冷えれば冷えるほど、気持ちは高ぶる。気持ちとはここでは季節感ということなのだろうか、具体性のない感情はいつも身のまわりのものとくっつけられて簡略化される。

「この前はわるかった」と僕は言った。この前とは僕が里子と会った日のことだ。

「どうして?」と末次さんが不思議そうな顔をして訊いた。

「どうしてだろう? うん、まあ、よくわからないんだけど、とにかく俺は今、このなんとも言いがたい状態で話を切り出さなくちゃいけないんだけど、その為には、まずは自分が謝ったほうがいいんじゃないかなあと思って反射的に言葉にしてしまったんだ」

「そんな説明いらないんじゃない、気まずいのはお互い様なんだから。そうでしょ?」

「やっぱり気まずいんだ?」

「ふん、なにさ、余裕あるところ見せちゃって。そんな演技しても駄目よ、あなたなんか全然、あたしに後ろめたいんだから。わかってるわよ。あたし、もっと早くにあなたが売場に会いに来てくれると思ってたのに、あなた気まずいから来れないの」と末次さんもおおよそ思っていることを言ってくれた。それで僕は少し楽になれたのは確かなことだった。

「ねえ、何か飲まない。あったかいの。何がいい?」と言って自動販売機を指差すと、末次さんは僕と同じものでいいと言った。それで、なんとなくコーヒーよりは他のものがいいような気がした。彼女が何を飲みたいのかわからなかったので、コーヒー以外に自分が飲みたいものを選んだ。結局、僕が選んだのは、コーンポタージュだった。あったかければなんでもよかった。そういうつもりで彼女にそれを渡した。彼女はそれを見て笑った。「あれ、なに、コーヒーじゃないの? 珍しいじゃん」

「ボタンを押し間違えたんだ」と僕が言うと、彼女が「二本も押し間違えたんだ?」と言わなくていいことを言うものだから、むきになって、「一本目のやつを間違えたんだ。コーヒーを押したつもりが、三つ隣にあるコーンポタージュを押してしまった。で、そっちが同じものがいいって言うから、同じにした。二本も押し間違えたりしない。いちいち細かいよ」

 末次さんは「ふうん」といい加減な返事をして、カチッと音をたて、缶をあけた。彼女が缶を振らずにあけたのがやけに気になったが言わないでおいた。無論、自分の缶はもの凄く振った。彼女に缶を振ってないことを後悔させるために、彼女の目の前で大袈裟に振ったのだが、結局、彼女はそのことには気が付かなかった。

「ねえ今日はどういう話なの?」と末次さんは少し僕を責めるような口調で言った。

「どういう話をしたらいい?」

「そうね」と末次さんは考えているようだったが、結局、何もないようだった。それで、僕は「色々なものを明確にするべきなのかどうかわからないんだ」と言った。

「そうね」と末次さんは言っただけだった。

 僕らがもし何かを明確にするとしたら、それは具体的には三つのことだった。それは末次さんの恋人のこと。この前の里子のこと。それと僕らのこと。しかし、これらを明確にしたところで、僕らの関係がもとどおりになるとも思えなかった。いや、その前に僕と末次さんの間に何らかの(恋人でもない男女の)関係があることがおかしいのであって、それを今更、もとに戻すというのも僕のつくりあげた勝手な論理だった。

「この前は彼女?」と末次さんが先に質問した。

「彼女ではないけどね」と僕が答えた。

「でも、それはあまり話したくないんだ?」

「そうじゃない。話したくないんじゃなくて、話しても意味がないことなんだ。もうどうでもいいことなんだ。もし末次さんが気になって、それが原因で俺を変な目で見てるんだったら、俺はいくらでも説明するよ。もしなんだったら、弁解だってする。でもそうじゃないだろう? そういうのは始まりが、まっとうな男女の間ですることで、末次さんはそのことで俺のことを責めてないんだよ」

「そうね」と末次さんは言った。それ以上、何か言葉があるわけでもなかった。

 僕はまた、何もない日野の駅前あたりを見下ろした。はたして何もない。ただ末次さんの家があっちの方向にあるのを僕は知っている。

「俺が嘘ついたことで、末次さんが怒っているわけでもない」と僕は続けた。彼女は同じ、「そうね」を繰り返した。

「むしろ、俺が末次さんに嘘をついたことを、俺が今、後悔していることに、末次さんはある種の抵抗を感じているんだ」と僕は言葉を並べたが、末次さんの返事はここでは何もなかった。

 僕と末次さんは二人でいるときはいつもこうだった。僕はよく喋るが、末次さんはまるで話さない。返事のしにくい僕の言葉に頷きさえしないのだ。彼女から、質問しておいて、その回答にはいっさい関心を示さないときが多々とあったから僕は閉口が常だった。おそらく僕の言葉が、彼女の興味ひかなかったり、あるいは意向にそぐわなかったりしたのだろうが、それなら我々のするコミュニケーションとはいったい何なのだろうか、と僕は以前、声を大にして彼女に訴えたのだが、彼女は僕のそれにさえ頷きひとつしなかった。それでも僕が末次さんと上手くコミュニケーションをとれていたのは、末次さんに頷く暇をほとんど与えることがなかったからだと思う。僕はひっきりになしに彼女に話しかけた。もちろん、彼女には僕と話をしている自覚はなかったと思う。僕も彼女と話をしているというよりは隣に彼女がいて、僕はその安心のカゴの中で自由に遊んでいる気分で、喋っている内容など随分と思いつきなものばかりで、もし彼女が僕の言葉の一つひとつを拾っていて、それを全部並べたら、今では僕という人格が疑われるぐらい彼女に出鱈目に言葉だけを費やした。そういうのを重ねているうちに、僕は言語的な信用はまったく失っていたのかもしれない。それでも、僕らはそういう手もち無沙汰なときこそ、セックスをしたし、セックスをするために僕なんかは、会話の必要性を無くす努力をしていたと言っても過言でもない。けれども、それは僕の側の話で、末次さんのほうはやはりそういう僕に限界を感じていないわけではなかった。彼女は言葉にさえしないが、そのことを僕にわからすためにそれなりの素振りをしていないわけでもなかった。だから彼女は今回の微妙なすれ違いを見逃すことはなかったのだ。彼女はきっとこのような微妙なすれ違いを待ちわびていたに違いない。

 末次さんは何かを言いたいようだったが、僕が他にもまだ何か言うかもしれないので、黙って僕が話を終えるまで身構えていた。このような場合、彼女は最後まで自分の意見をちらつかせたりしない。しかし、僕のほうは既に彼女の言葉が欲しくて、彼女のことを促がさないわけにはいかなかった。

「ねえ、何か言ってくれないか」

 末次さんは頷いた。そして少し笑みを浮べて見せた。

「今、ふっとね、あなたの書いてる小説のことを思い出したの。ほら、前に一度、そういうの説明してくれたじゃない? 今のあなたの話を聞いているうちにそのことを思い出しちゃったの。どうしてかわかんないけど、なんとなく、あなたの書いてる小説が、どういうふうなのか想像できたの」と言ったところで、彼女は僕の顔色を確認した。そして「ねえ、それ話してみてもいい?」と訊いた。

 僕は黙ったまま、彼女が次の言葉をだしてくるのを待った。

――― 僕は普段、アルバイトの傍ら、小説を書いている(というか小説を書く傍ら、アルバイトをしているのだが)。そのことを末次さんは知っていたのだが、僕の作品を彼女は読んだことがない。それは僕がもったいぶっているわけではなく、彼女が読みたくないといって読んでないだけのことで、しかも僕にしてもめったに作品を他人に読んでもらって感想を聞くようなことはしてないので、末次さんの場合もそれでいいと考えていた。ただ彼女は僕の作品に意外に関心を持っているらしく、それは彼女が文学少女だということもあったからなのかもしれないが、彼女はいちいち僕の小説のことを知りたがった。それは、ほとんどの知り合った人間が僕に訊くことなのだが、いわゆる「どういう小説を書いてるの?」というふうな質問を彼女もしたことがあった。そういうとき普段なら「自分でもよくわからない」とか「夏目漱石が好きなんだ」とか「普段、小説なんか読まないだろう?」とか言って、その質問の類いを誤魔化すのだが、さすがに末次さんは誤魔化せるわけがなく、彼女には幾つかその話をしたことがある。もっとも彼女が話をまともに聞いていてくれたのかはわからないが、僕は自分の小説を説明したことがあった。

「はっきり自分でもその言葉の意味とか、それ自体の形式とかを理解できてないんだけど、俺は自動手記という方法で、自分の文章を書いているんだ。いわゆるその手法の芸術的な側面は軽視してね、ただ頭の中にあること、思いついたことをそのまま、順番に書いてみるんだ。もっとも始めに用意した考えなんかがあるわけではなくてね。まあこれは性格的な問題でもあるんだけど、俺っていう人間は何にでも影響されやすくて、一つのことを書くことが出来ない。それで、先に文章を書いてみるんだ。無意識に身体から滲み出てくるものを文章にするんだ。別に書きたいことが何かわかっていて書くわけじゃなく、書いたあとにこれが書きたかったんだなという振り返る感じかな・・・・・・といっても振り返ったところで何も書けてないときがわりとあってね。人物もその対象も、背景も時間も何ひとつ書けていないときがある。そういうときは正直、何も残らない。充実感も疲労感も何もない。うん、まあ、浪費はあるかもしれない。でも俺がそれを浪費だと思わなければそれは浪費ではない。とにかく読者は楽しくないだろう。でも、書いている本人は誰より楽しいんだ。なによりその渦中にいることが楽しくて堪らない。それが自動手記のいいところでね、もともと俺は書かかれている内容より、語り口調や、文体を読むのが好きで、その中で、ふいに書かれているアドリブとも言えるような独白をもっともその作品の重要度の高いものだと思っているんだ。そういう作品には、どこかにきっとイッてる箇所があってね、俺はそういうのが好きなんだ。他人の文章にしろ、自分の文章にしろね」

「つまり、読者の反応より、自分の書いてる時間を優先したいわけだね」

「そんなことは言ってないよ。俺は書いてる時間に含まれている自分を大切にしているだけだよ。読者の反応はまた別のところにあって、今それと俺の小説のスタイルとは同じ線上で比べるものじゃないんだ」

「そういう独りよがりの、説明足らずの小説は不親切だよ」

「不親切だから、文学なんだ。これ以上、親切にして誰と仲良くなろうっていうんだ?」

「だから文学なんかつまらないって言ってんのよ。せっかく同じ時間を潰すんならあたしは漫画や映画を観たほうがだんぜん面白いよ」

「時間を潰すんなら漫画や映画に限る。ただ不親切なフレームが前提で想像力を育てるという意味では俺は小説が一番好きだ。不親切に不親切を重ねても親切な読者がついてくるんだから、凄いじゃないか。それ以上、何を説明することがあるんだ?」

「つまり他人の快感より、自分の快感が大事なのね、あなたは」というおおよその理由でこれまで彼女は僕の小説を読みたがらなかった。

 隣で末次さんはコーンポタージュの缶を両手で抱えるように口につけて、僕のことを横目でちらちらと二回ほど見た。

「あたしね、思ったの。あなたは、つまり、その、小説を書くことと、あたしとのことを一緒にしているんじゃないかって・・・・・・というのは、あなたの中では、あたしはいわゆるあなたの小説を書く行為と同じ線上でチラチラ気にされているイメージじゃないかと思うの。もともとのあたしにあった性格だとか意向だとかが、何であれ、あなたには意味のないもので、あなたは単にあたしという更地が必要なだけで、それは結局、あたし個人でなくてもよかったんだって」

 僕はひとつ頷いただけだった。いつものように言葉が洪水のように溢れてこなかった。もちろん末次さんの言葉が全て僕の意向を説明するものではなかった。しかし、それを否定する僕はここにはない。いつもの小説の恩恵という不親切な学問を日常にまで飛躍させている自分をここで初めて知ったのだ。

「それさ、いつから感じてたの?」

「いつからかな?」と言って彼女は少し考えた。「うん、詳しい時期まではよくわからないけど、言葉になったのは今さっきかな。でもこれは前から少しずつ考えてたの。あたしとあなたはいったい何なのって」

「ねえ、そういうこと、どうしてもっとはやく言わないの?」もともと僕らはずっと思いついたことを言葉にすることでコミュニケイトしてきたんじゃないか。

 すると彼女はあきれた表情で、首を振った。「あなたはあたしに話をする時間なんかくれなかったのよ」

 僕は時間という言葉に敏感に反応した。それはきっと彼女が以前、僕に言った「一人で過ごす時間」のことだったと思う。いったい僕はいつから彼女の時間になりきることができなくなっていたのだろう。初めて彼女の部屋に行ったとき、僕はそれをはっきり自覚していた。彼女には僕と過ごす時間の傍らにもう一つの時間が存在していることを知っていたし、それが存在しているから、僕と彼女は同じ時間を共有することができたし、無遠慮に彼女に言葉を投げかけたし、彼女も僕にそのことで主張をする必要もなかった。しかし、いつからか僕はそれが出来なくなっていた。彼女から時間を奪うことだけがいつからか僕を走らせていた。そう思うと彼女の「あたしという更地」という言葉が冷たく重くのしかかり、妙な信憑性を持っていた。もし、彼女の指摘が正しければ、僕はそうなんだろう。僕という小説書きの性が、無遠慮にそれを実行していたのだとすれば、始めから最後まで何も考えず、自分の言葉を綴り、その中に自分ひとりの快感を得て、そして、無意識のうちに末次さんを自分の時間の中に押しとどめていたのかもしれない。もちろん僕はそれを信じたくはなかった。しかし、彼女のそれは往往にして、真実を語っていたのかもしれない。

 そうしてこれまで僕はそのことを微塵とも気にならなかったが、そういう彼女の言葉を真に受けてしまうとこれまで通りに振舞うことが出来ず、彼女のコーンポタージュの缶を握る手の薬指に見え隠れする、指輪の存在を意識しないわけにはいかなった。考えてみれば今までの彼女は僕と会うときはそれをしていたことがない。初めて電車で声をかけたときも含めて、彼女がこれ見よがしの指輪をしているのはそれが初めてだった。「色々なことを明確にするべきかどうかわからないんだ」と僕は言ったが、もう何もかもが明確になったと思った。僕は既に彼女との繋がりを記憶の温度に頼るようになっていた。

「知らないうちに末次さんのことを好きになってしまったんだ」と僕は詫びるように言った。

 もちろん、末次さんは何も答えない。彼女はわかっていた。そしてそれは僕もわかっていた。僕は今の末次さんのことが好きで、末次さんは、以前のそうでない筈の僕のことが好きで、僕が彼女のことを好きだという感情を露わにしてしまった今、彼女にとって僕は響かないんだ。何故なら彼女にとって僕は非日常的なものであり、その条件で僕は彼女の中では特別な部屋にいたわけであって、そこにいるだけで、彼女の要求を満たしていた。それは以前、彼女が僕に語った「一人で過ごす時間」であり、多摩川で過ごす時間であり、文学的趣向であり、つまりは恋人以外のセックスだったのだろうと思う。彼女といるときはいつも二人でいるつもりだったが、彼女にとっては僕といる時間はきっと「一人で過ごす時間」だったのだろう。そのことを僕は以前まで、無意識に理解できていたのだが、ある時を過ぎてからそのことを理解することが出来なくなっていたのだ。

「あたしはあなたのことがよくわからなくなってしまったの。ずっと、友達でもない、恋人でもない、ただの浮気相手でもない、それ以上でもなくて、それ以下でもない。あなたはあたしのなんなのって。そこへきて、あなたからそういう具体的な感情を聞かされても理解できないよ。あたしたちってずっと、そういう段階を無視していたじゃない。むしろ無視したかったじゃない。それにそういう状態に、あなたが閉じ込めたんじゃない。なんで今更、そんなこと言うのよ」

「今まで、わからなかったんだ。俺はそこにいることが心地良くて」と同意を求める口調で、強く彼女の反感をかうように努めた。もう何もかもが終わったんだ。これが起源のない話の終焉、即ち、無意味さの意味だ。

「あたしは原稿用紙じゃないの。あなたのためだけに存在していないの。あたしはあたしの時間が欲しかったの。もちろん、あなたはきちんとその時間に、そこにいてくれたわ。でも、あなたはあたしだけじゃなく、あたしという更地を求めてたの。それは真っ白で時間のない場所のような女なの。つまりイメージなの。あたしと居てあなたは一人、闊達だった。でも、あたしはそれが厭だった。窮屈だったの。あたしって女は基本的に、ケチなの。そういうの許せないの」

 しばらくそこにいて、その場に耳が慣れて落ち着いてしまうと、電車が入ってくる音がなかなか聞こえない。不思議なもので中央線は視覚が先行する。いつのまにかオレンジ色の電車がしめやかに、またぞろ二人の前にも後ろにも停車した。この時間帯は乗る人間も降りる人間も数えるしか居ない。はじめて電車の中で末次さんに声をかけた時も僕はこの閑散としたホームへ飛び降りた。去り行く末次さんの後ろ姿が僕にそうさせた。

「じゃあ、これからどうしたらいい?」

「どうもしなくてもいいよ。普通にしてれば。ただ、あたしはもう会えないよ」

「ケチ」と僕は力弱く言った。半分は冗談を含んでいた。欲求にやさしく呼応する末次さんを、未だ期待していた。

「ケチだもん」と末次さんがピシャリと真剣な顔で言って腰をあげた。

「いやだよ」と戯れに、立ち去ろうとする末次さんのカバンを掴んだ。彼女は黙って、それを強く引いた。緩やかなその動作に無言の力が込められた。幼稚園の先生がそうだった。その仕草の機械的な冷酷さに僕は思わず手を離した。「末次さん?」

「子供っぽいんだよね」と彼女は憎悪を剥き出しに言った。

末次さんのうつむきかげんの横顔に胸騒ぎがした。身体が内側から熱くなり、足をジタバタさせたい欲求が血となり体内を流れた。それでも表向きの欲求は完全に停止され、ホームの階段を降りていく彼女の後ろ姿を見ているだけだった。

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