1998年のアメリカ旅行 第8章
9月7日 ヴィヨンの妻
ビッグ・アップル
再びニューヨークにやってきた。
相変わらずの街だ。
デカイ面をしやがって。
僕は大都会の片隅で小さくなり雨が止むのを待っていた。
僕はいきなりの大雨の洗礼を受けたのだった。
昼の2時だというのに雨雲で辺りは真っ暗だ。
日本ではこんな空はまず見られない。
暗黒の何々と称されるものは、きっとこういう空を隠喩しているのだと思った。
この街はまともに人を受け入れることは出来ないのか。
たくさん人が居るんだから、僕ぐらい大目に見てくれても良いではないか。
街とは対照的に人、僕、やけに縮み込まっている。
小心者の傷心旅行、楽しいことばかりではない。
雨が止み、とにかく落ち着きたかった僕は、早速クイーンズにある某家を訪れた。
僕が行くとまだ午後の4時ともあってケンゴさんは出掛けていた。
それでもルームメイトのアキラさんに温かく迎え入れてもらえたので、ホッとした。
この前、ここを離れてから1週間ほどしか経ってないというのに、なんだか懐かしい匂いがした。
僕は飼い主の帰りを待つ犬のように部屋で彼の帰りを待っていた。
その間、僕は何もすることがなかった。
しかし、することがないと言っている時ほど、見えない何かが追ってきているものだ。
そう思って何かしようと思ってもやはりすることがない。
日記を書くにしても一日が終わってないのだから書くわけにもいかない。
それで仕方なく椅子に坐って、ゆっくりしていた。
ゆっくりしすぎて他人の机の上のものに目がいって、僕はそこに一冊の本を見つけた。
『ヴィヨンの妻』。
太宰治のものだ。
これは読んだことがないので読んでみようと思い1枚2枚とページを繰った。
1時間ほど読んだだろうか、外はそろそろ日を落とす準備を始めていた。
まもなく僕もそれを読み終えた。
そうなると僕は暗くなるまでに晩を食べてしまいたいと思って、近所のチャイニーズの店へ向かった。
その店は僕がニューヨークに来てから何度か利用しているのでなんとなく行き易いのだ。
値段が安いというのも理由の一つだ。
中国人のわりには愛想の良い中年の女性と、それよりひとまわりぐらい若い女性の二人が、カウンターに立ち注文を受けている。
奥では白い割ぽう着の男達が中華ナベを奮っている。
そんなどこにでもありがちな形態の中華料理の店で僕はフライドライスとチキンテリヤキを食べた。
今更、味についてどうのこうの言うつもりはないが、うまい。
量にも不服はない。
そんな利点が活きているのか、そこは僕の目からみるととても繁盛しているようで、僕が食べ終わるまでに、何人もの客が入れ替わり立ち代り、カウンターの前に立っていた。
その度に愛想よく振舞う従業員たちに感心せずにはいられなかった。
その彼女らの働きぶりが、先程読んだ『ヴィヨンの妻』の主人公の女の働きぶりと重なり、それはただ愛想のよいだけで片付けられるものではないような気がした。
彼女らは僕にとっては、ただの愛想のよい店員だが、そうでない場合、彼女は愛想で生きているわけでもないのだから、他人の愛想を誉めるというのも、どこか身勝手な態度だ。
僕としてはその愛想より、無愛想な部分を隠している彼女らの力強さをなんとか、いいような言葉で表現したい。
例えば、先程読んだ『ヴィヨンの妻』の主人公の女の言葉は力強くていい。
「人非人でも構いません、私たちは生きてさえすれば良いのです」。
そういうものを見ていると、やはりスカッとする。
7 Sep 1998
9月8日 近代美術館
MoMA
ニューオーリンズ美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー、ボストン美術館とアメリカの美術館をめぐってきた僕が最後に訪れたのはニューヨークの近代美術館(MoMA)だ。
この有名美術館めぐりで僕自身はなんとなく芸術かぶれになっている気がしている。
でも、なんと言われようが、絵を見るという行為は大切だと思う。
マチス、ピカソと僕は大好きな絵の前に佇んでいた。
8 Sep 1998
9月9日 画集のサイズ
1997年の孤独
旅の感覚としては良くない。
少しリラックスし過ぎているのではないだろうか。
ニューオリンズで味わった切羽詰った食事やボストン、フィルラデルフィアの孤独感などで培った忍耐力とまでは言えないが、それらが一気に食べた物と同じに排泄されてしまいやしないか心細い。
今、僕はニューヨークに居て友人の宅で世話になっている。
世話という言葉の最上級に値する言葉があれば教えて欲しいぐらい世話になっている。
それにつけこんで僕にはまったく緊張感がなくなってしまったという近頃、野良猫が飼い猫になったようで外へ進んで出かけようとする気力がない。
けれど僕が飼い猫よろしく振舞うことに抵抗を感じるのは、やはりその状況に気が付く、孤という意識、或いはその自覚があるからだ。
僕は腹が減ったので外へ出る。
少し前にそんな生活を繰り返した覚えがある。
家の中に食べ物がないので仕方なしに出かける。
19そこらの若者がいったい何を考えて暮らしているのだと批難を浴びるだけ浴びた時代の話だ。
尖がったくちばしと、夜になったら何も見えなくなる目は、いつ暴発してもおかしくない生活をしていた。
1997年はそういう暗い年だった。
ニューヨークを歩く
今日はきっとその頃、僕が演じていた自分と同じ朝、起きぬけのだらしない顔を隠すことなく、空腹を満たすためだけに外へ出た。
そして性懲りもなく、そういう惰性に僕はときどき人に説明しがたい悦に入る。
そのような雰囲気で出かけたにもかかわらず、今日はかなり歩いた。
適当に地下鉄に乗って見たことのある駅の名前で降りた。
カナルストリート、チャイナタウンのすぐそばの駅だった。
僕はとにかく一日の時間を浪費するがごとくそこを歩いた。
店の中を何軒が見て廻っているうちに少しずつ時間を忘れていた。
少し疲れて坐ったときにはもう既に夕方の四時で、再び空腹感を感じていた。
けれどこんな若い時間に食事をするわけにもいかないので、僕はコーヒーを飲んだ。
最近は旅も終りが近付きコーヒーを買う余裕も出来ているのだ。
それに僕のコーヒーを買うときの英語も乙なものだ。その時の画を見た人は大方、僕のことを日系のアメリカ人か、英語ベラベラの日本人留学生に思っただろう。
僕もバレてしまわないように必要以上は喋らない。
どうしてそんな滑稽な無理をしてしまうのか自分でもわからない。
ただコーヒーを飲めればそれでいいのに変にコーヒーを買う一連の動作に拘りを持ち、ひとつも落度のないようにしている。
それに満足しているのだから、どうしようもない。
少し休んだので再び歩く。
ここは何処だろう?
おそらく、ロウアーマンハッタンぐらいかなと疑うように一歩一歩前に進み、そこに一軒の古本屋を発見した。
店内は伽藍としてはいるものの、一生懸命に本を漁る数少ない人々のおかげで何とか活気がついているといった感じで、僕も自然と本を探していた。
探しているという言葉にも二通りあり、探すものが決まっていて探すという場合と、探してみて自分はこれが欲しかったんだと後からわかるという場合、どちらかというと僕は後者だ。
何をするにも尻が重い理由がわかるような気がする。
それで、何か見つかったのかというと見つかった。
それはいくつかの画集だった。
ニューヨークともあってさすがにその数は盛んだ。
英語を読まずとしてわかるので、少し見入ってしまっていた。
それでそれを買ったのかというと買わなかった。
理由は三つ。
ニューヨークで画集を買ったことを友人に知られたら、後々面倒だから。
タッセン社のものなら、日本でも紀伊國屋とかで手に入るだろうから。
僕の灰色のリュックサックより画集の方が大きかったから。
9 Sep 1998
9月10日 パン
今日はヤンキースタジアムに行ったことを詳しく書くべきなんだろうが、別に書きたいことがあるので、この件は割愛させて戴く。
僕が今日、書きたいこと。
それは題にもあるようにパンのことだ。
僕の住んでいるクィーンズ、ここウッドサイドは実にパンが美味い。
そして安い。
ケンゴさんにその店を教えてもらって以来、ほとんど毎日、通っている。
そして今日はまた別の店を教えてもらった。
「トミー、もう一軒、パン屋教えたるわ」と彼は僕を連れて出かけた。
もちろん、これも美味かった。
丸い形をして中身はチーズのような、カスタードクリームのようなバターのような色がパン生地に染み込ませてあるシンプルなパン。
忘れられないあの味。
名前はあったのだろうか?
ケンゴさんは「それ二つ」と言ってショーケースを指差しただけだった。
それがどういう味だったのか、僕はうまく説明できないけど、それを味だと認識する前に、恍惚とその丸にかぶりついていた。
僕は腹が減っていたんだ。
「な、美味いやろ?」と僕に訊いた人とは僕の最も愛すべきニューヨーカーのことだ。
もし僕が、ニューヨークの街について小説を書くなら、僕はまずここから始めよう。
10 Sep 1998
9月11日 コニーアイランド
ファースト・ニューヨーク
コニーアイランドもやはり夏は終わっていた。
ウミネコの声が波の音とちょうどになって、僕は別れのシーンのように閑散とした、そのオフ・シーズンのビーチに身を置いた。
少し肌寒かった。
これがいわゆるケンゴさんが教えてくれたファースト・ニューヨークなのか、たまらずケンゴさんから借りている長袖のパーカー付きのスウェット・シャツに袖を通した。
遠方に映る貨物船は僕にここが異国の地であることを知らせていた。
ここに座って、しばらく、海を眺めていよう。
そう思った。
僕の座っているすぐ後ろに、コーヒースタンドの小屋があったので、そこで、コーヒーを買う。
1ドルだった。
「シュガーアンドミルク?」と店の女が訊いたが、僕は「いらない」と答えた。
一人ぼっちの世界
それからまた元のベンチに戻り腰を掛けた。
このコーヒーは美味いのか? と僕は腹で笑い、啜った。
空は灰色に染まっていた。
これがこの地のこの時期の特有の空なんだと誰かに説かれたら、それはそうなんだろうと思う。
とにかく灰色はよくない。
そう思う。
しかし、僕は真っ白な心も、どす黒い悪意も持っていない。
友達のこと
尖がったくちばしと、夜になったら何も見えなくなる目は、いつ暴発してもおかしくない生活をしていた。
1997年はそういう暗い年だった。
なにもしたくない。
誰とも話したくない。
これがその年齢にある男の本来の有り様だと誰かに説かれたら、そうかもしれないと思うだろう。
これは誰もが通る道なんだと言われれば、そうかもしれないと思うだろう。
しかし、それは僕が文章を書く習慣を身につけたからであり、その傷跡がキレイに消えたということではなく、時間が経てば経つほど彼の年齢を僕が追い越して、年齢を重ねて、そこから離れていく自分を知れば知るほど、痛みを忘れてしまうだろう。
だから、僕は生きて呼吸をし続けなくてはならない。
忘れない
即ち書く。
書く、書く、書く。
最初は呪縛されていたのかもしれない。
友人の誰かはそのことはもう言わない約束だと僕をたしなめるだろう。
彼らの説く若気の至りは、誰のことも慰めてくれない。
浴びるぐらい酒を飲ました友人に気遣うことなく早朝、別れた。
帰りの道、泥酔した友人はその朝、電車にはねられた。
僕がそのことを知ったのは2日後の夜だった。
小説家として生きていくと決めた日
今、僕には書くというある種の浄化作用を心地良いと感じる日常があるが、ふと、そのカタルシスに浸っている自分が、誰かに後ろ指を指されているような気がし、立ち止まって後ろを見る。
もちろん、そこには何者もひそむものはなく、ただ僕の足元、そう自分が浮き足立っていることに気付く。
あれから僕はどうなった?
これが常に僕につきまとっている。
カラカラに渇ききった喉に、冷たい水がほしいと思う。
夏の日のマウンド、深夜のイベント設置会場、彼女と友達になった放課後。
書きたい、無性に書きたい。
小説が書きたい。
今、机の前に坐って小説の中にどっぷり漬かりたい。
コーヒーもう一杯
僕は思い出したように、背後にあるコーヒースタンドの小屋を訪れた。
「ハーイ」と僕は後ろ向いて仕事をしている店の女を呼んだ。
彼女は少し呆れたような笑いを見せ、英語で何かを言った。
多分、何かの愛想だったのだろう。
僕はよく英語がわからないので「また来たよ」と少し明るい声で答えると、女は酷く高い声を上げて笑った。
僕もクスクスと鼻で笑い、きっと会話は成立したんだろうと僕は思い、財布から1ドル紙幣を取り出し、カウンターの前にポンと音を立てておいて「おかわり」という英語の単語を言った。
11 Sep 1998
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