ボルチモアにあるエドガー・アラン・ポーの家と墓。ベーブ・ルースの生家を訪れ、カムデンヤードではカル・リプケンを見た。

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1998年のアメリカ旅行 第4章

8月19日 エドガー・アラン・ポーの墓

府知事ふたたび

朝から風が冷たく少し肌寒いので、ほんの少し北上する僕は半袖一枚で大丈夫かなと、いつもしないような心配をしていた。

僕らはワシントンD.C.よりバスで北へ1時間ほどのところにあるボルチモアという街を目指した。

僕らというぐらいだから、誰かれ連れ合いがいて、僕は1人でない。

今日の僕の連れはニューオーリンズで知り合った府知事だ。

ニューオーリンズで別れた筈なのに、再びワシントンD.C.において再会してしまった。

世の中とは本当に狭いものだ。

そして、そこで彼がボルチモアへ行くというので僕も一緒に来たという次第だ。

ボルチモアに行ってみたい

けれど最初から何も知らないでそこへ行くことを決めたわけでもない。

ニューオリンズにいるとき南下してきた人々に何処の街が良かったのか聞くと、たいていの人がニューヨークやワシントンD.C.を挙げて話してくれたけど、その中に一人だけボルチモアが良かったという人がいた。

彼はメジャーリーグ好きで、ずっと野球観戦をしながら旅をしているという、ある意味一番、ツーリスティックな人だったが、目的を持った旅をしているので、彼の話には説得力があった。

彼の話すボルチモアは夢の地のようだった。

それで僕のボルチモアは頭の中で凄く膨れあがって、何とか行かなければと思うようになっていた。

何がしたいというのではなく、とにかくそこへ行きたい。

それだけだった。

ベーブルースの生家

ボルチモアの風は少し旅に疲れている僕には心地良すぎた。

少し冷たい風が頬を撫でるやさしさが堪らない。

どことなく落ち着きのある街並みが旅の疲れを癒してくれた。

自然と一歩一歩が速くなる。

僕らはベーブルースの生家を訪れた。

その家屋の中は彼の偉業を称えるが如く、当時の写真や使用済みのバット等が並べられていた。

僕自身、野球から離れて、もうしばらく経つけれど、未だに野球選手として名が残ることが羨ましくてならない。

ボルチモアに生まれて、この潮風に包まれていれば、と思わないでもない。

エドガー・アラン・ポー

次に僕らが向かったのは、アメリカが生んだ狂詩人、エドガー・アラン・ポーの墓とその家だった。

実際、僕は彼をよく知らないが、以前、読んだ永井荷風の『ふらんす物語』において、アメリカとフランスを比べる場面で、唯一彼がアメリカで優れたものはエドガー・アラン・ポーだと豪語してたのを覚えていたので、凄く興味があった。

墓は大きなストリートからすぐのところにあったので、わかりやすかったが、家のほうがどうやら見当たらない。

しばらく歩くと僕らは街から外れ、少し雰囲気の悪いところへ来ていた。

ここでいう雰囲気とはアメリカ特有の犯罪に遇うかもしれないという匂いのことだ。

ところへ背の高い黒人の男がやってきて、ポーの家を探しているんだろう、と言って僕らをポーの家まで案内してくれた。

彼は「この辺りはデンジャーなんだよ」と言って微笑んだ。

どうやらこの辺りに来る観光者はポーの家ぐらいしかないらしい。

彼に案内してもらえなかったら僕らはそこを見つけることが出来なかっただろう。

そういう場所にポーの家はあった。

家の前に立った僕は少し固くなった。

作家、物書きをめざす僕にとっては、作家の家を場所を見るのは初めてだった。

家はレンガ造りの長屋のアパートの一番右端で、古めかしさはあるのだが、現在でも充分、人が住めるといった感じの建物だった。

それを見て何を感じたとは特にないけれど、そこを離れるときに僕は一つ心に決めたことがある。

19 Aug 1998

8月20日 宿なし

再びワシントンD.C.へ

昨日、観たメジャーリーグでなかなか目が覚めない。

ボルチモアのカムデンヤードでカル・リプケンを見て感激していた。

夢を見たまま、寝惚けたまま、チェックアウトをしてボルチモアを離れる。

再びワシントンD.C.を目指す。

ボルチモアでは少し足を伸ばして、フォート・マック・ヘンリーへ行ってきたので、ボルチモアを出るのが遅れたせいで、ワシントンD.C.へ着いたのは夕刻の七時ぐらいになった。

僕らはバスターミナルから歩いてユースホステルに向かった。

今晩、泊まる宿がない

いざユースホステルに着いてみると満室で一つもベッドが空いてないらしく、僕らはフロントで安いホテルを紹介された。

安いといっても僕らの考える安さとは随分と違っていて、そこへ行って1泊する気にもなれなかった。

それでも泊まらないわけにもいかないので、僕らは紹介されたホテルなりモーテルなりに1通り電話をした。

それでもやっぱり駄目だった。

観光のシーズン真っ盛りのワシントンはどこも部屋は満室だった。

と、そのとき、僕らはあることに気が付いた。

それはどういうことか。

というのは実は、先から僕らが電話をしていた場所というのが、そのユースホステルの2階の多目的ルームで、長々とそこにいる間に、僕らの格好はそこの宿泊客といっても何の違和感もない状態になっていた。

時計の針も随分すすんでいた。

僕と府知事は目を合わして笑った。

2人の思惑は一致した。

「今日は黙ってここにいよう」

それで、僕は一晩中、2階のキッチンの机で日記を書いていた。

しかし、もう1人の宿なし府知事はというと、勝手に部屋に潜り込んで、毛布まで他人に借りて、僕が探した頃にはスヤスヤと眠っていたのだった。

20 Aug 1998

8月21日 ドーナッツ

朝を迎えて、とにかく僕は甘いものが食べたかった。

コーヒーがあれば尚よい。

ユースホステルの中にちょっとした売店があるのだけど、なにしろ潜りの身分なのだから、堂々と買うわけにもいかない。

チェックインさえ出来ればいいのだか、中にいるので、チェックインするにしても不自然な形になってしまうので、なかなか上手くもいかない。

自然な形でチェックインするにはまず、僕らは一度、外へ出なければならない。

とりあえず僕は府知事を起こしに行った。

僕が行くと彼はまだスヤスヤと眠っていた。

よくもまあ、こんな時にゆっくり眠っていられるもんだな。

僕らがフロントの前を通って外に出るのは簡単だが、再び入ってチェックインするのは難しい。

何故なら、フロントの男には昨晩何度も顔を見られているので、その男の勘が鋭ければ、昨晩の演技がバレてしまう。

そこで、僕らは少し作戦をたてる。

しかし、次の瞬間、僕らに好機が訪れた。

フロントの男がちょうど入れ替わり、別の従業員が現れた。

僕らは白々しくもたった今、ユースホステルに来たという体裁で、チェックインをした。

僕はこのときほど、眠れることの喜びを感じたことはなかった。

すぐさまドーナッツと甘いコーヒーを買い、夢の中へと眠りについた。

21 Aug 1998

8月22日 日常の一つと行動の意味

ワシントンを後に、僕の旅も中盤をむかえるわけだが、ようやく自分らしさでもって旅が出来るようになったのではないだろうか。

もちろん、無理をしているときもないわけでもないが、無理をしなければやっていけない実情が僕にはあるのだから、これも仕方ない。

負けず嫌いなのだ。

例えば、英語の下手な自分は流暢に英語を話せる人を見ると悔しくて堪らない。

すると無理をする。

英語の出来る人に頼めばよいのに、僕は出来もしないのに自分でホステルの電話予約をしたりする。

そして結局、予約がとれないのだからかなわない。

こんな事がしょっちゅうある。

日本にいるときから変わっていない。

自分自身の進歩を求めてこの地にやってきたのにちっとも変わってない。

よくよく考えてみるとここ何年かの間、僕は悲しいぐらい何も変わらずにいる。

こんなにも自分が変わらないことが周囲に嫌われてしまうのではないかとさえ思っている。

なにか人が驚くようなものを持って帰らなければと焦っている。

そうすればそうするだけ、今現在の自分の行動の意味がわからなくなる。

せめて日常の一つひとつを大切に感じることにしている。

22 Aug 1998

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