グレイハウンドバスでワシントンD.C.まで長距離移動。ホワイトハウス見学ツアーに参加し、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを訪れる。

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1998年のアメリカ旅行 第3章

8月15日 グレイハウンドバス 

旅は道づれ

僕は1人で旅をしているのだけれど、日本人の集団にいたので、1人で旅をしている気がしない。

別に1人にこだわっているわけではない。

大勢いれば、それはそれでいいと思っている。

しかし、やはり1人で旅をしているのだから、1人で考える時間もあっていいと思う。

そう思えば思うほど、僕は1人になれない。

旅は道づれ、僕はニューオリンズで知り合った男性と一緒にワシントンD.C.に行く羽目になった。

こんな書き方をすると僕がその彼を嫌っていると思われるが、そうではない。

ただ、相手に気を遣うのが厭なのだ。

1人になりたいのだ。

けれど一緒に行こうと言われて、厭だと言えないのだから仕方ない。

僕らは長時間の旅になるのを覚悟し、バスに乗り込んだ。

バスで30時間

悪名高き、グレイハウンドバス。

僕は乗るのが初めてだった。

人々が噂するほど悪くないのではないだろうか。

そう思っていた。

何ごとも悪いと思っていたら悪いし、良いと思っていたら良いからだ。

しかし、そんなことがアメリカに通じるわけがない。

結論からいうと、グレイハウンドバスは日本社会で一般的なカスタマーとして生活する人間にはむかないバス会社である。

これが当たり前だと思えるようになるためには、人間をやめて荷物になるしかない。

グレイハウンドバスのこれが酷い

一つ目は、とにかく子供がうるさい。

これは日本の新幹線でも見られる風景なので、ある程度、耐性ができているけど、あるポイントを超えると子供が悪いのではなく、その親が悪いことがわかってくる。

乳飲み子を抱えて、30時間も長距離バスに乗ろうという根性に脱帽する。

二つ目は、車内の冷房が尋常ではない。

われわれは生鮮食品じゃないぞと言いたいぐらい寒い車内だ。

アメリカ人の皮膚の感覚を疑ってしまう。

一回目の乗換えの時には僕は鼻水が止まらず頭痛もひどかった。

Not good for travel

そして、それ以上に僕が伝えたいのは、バスの乗り換え時間の時刻と場所の不鮮明さだ。

グレイハウンドバスは基本的には直通じゃなくて、各都市で何度もバスを乗り継いでいかないといけない。

それなのに明確な乗り換え案内がない。

日本なら何番乗り場、何時発ときちんとわかりやすく出ているのに、そこにはそういうものが一切ないのだ。

おまけにバスディーポにいる係員に僕のチケットを見せて、どこで乗ったらいいのか尋ねても「知らない」といった有り様だ。

僕の隣に座っていたアメリカ人はもっと悲惨だった。

運転手にニューヨークへ行くには乗り換えが必要かと尋ねたところ、運転手に「私はワシントンまでしか行かないからわからない」ということを平気な顔で答えられていた。

僕はそれを見ていて笑ってしまったが、呆れてものが言えないというのが本当だ。

けれど、それが納得できる事実に僕はあとから気が付いた。

実は僕の持っているチケットのスケジュールの右上に英語でNot good for travel(旅にはよくない)と書いてあったのだ。

つまり、最初から旅にはよくないと言っているのだから、苦情は受け付けませんよ、という策略なのだ。

煙草の箱に書いてある「煙草の吸いすぎは健康によくありません」に近いものだと思う。

そんなバスに30時間も揺られていた僕のことを頭に思い浮べてください。

15 Aug 1998

  

8月16日 偶然と必然

それを偶然と呼べることなら呼びたいのだが、それを必然と呼ばざるを得ない白々しさが各々の表情からは感じとれる。

ここワシントンD.C.で、偶然、ニューオリンズで出会った旅人たちに会った。

1人居ないだけで皆が集まった。

全員で7人、こんな偶然があるものか、もちろん、あるわけがない。

ニューオリンズを立つ前に、それとなく口にしていたことなんだが、僕らはそれぞれ「ワシントンに16日ぐらいに行こうかなあ、どうしようかなあ」とほのめかしあっていた。

だから、決して約束は誰一人していない。

なにげない会話だった。

あくまでも偶然に見せかけようとみんな必死だった。

そして約束もしていないのに集まるなんて、そろいもそろって相当頭の悪い集団に違いない。

僕らは1週間しか離れていないのに凄く懐かしく感じた。

そして昔を懐かしむ僕らはどうしたかというと、言わずと知れる、近くの安いバーへと飲みに行った。

そしてやはり他愛もないことを延々と喋り続けた。

ニューオーリンズで起きた偶然は再び必然なる形としてワシントンに起きた。

16 Aug 1998

8月17日 習慣

ワシントンD.C.にて

せっかくワシントンD.C.にいるのだから、なにか書き残しておかなければと思ってはみるものの、何を書いたらいいのかよくわからない。

よくわからないのに書くのも少し違っている。

そのような前提で何か別の話題を導き出すことが、僕にできるだろうか。

難しく考えれば考えるほど、自分自身の話題の少なさを痛感する。

結局、僕は僕なりの低俗な話題しか書くことが出来ない。

禁煙

煙草をやめて数日が経つが、どうやら山を乗り越えたようだ。

以前のように煙草を欲することがなくなった。

これで僕は煙草を吸わなくて済む。

煙草をやめようと思った理由はこれといってない。

ただ、自分の健康のためや、金銭の出費をおさえるためといった理由ではない。

確かに後者はこの旅の予算を考えれば、もっともな理由の一つになり得るが、いざやめてしまうと、同じぐらいの出費がどこかで生まれているわけだから、それ自体は目的にはかなわない。

自分自身の問題なのに、はっきりと理由を述べれないのは好ましい態度ではないが、このことに関して、ぴったりくる理由がない。

セブンスターと缶コーヒー

それでも煙草をこうも簡単にやめれた理由ははっきりしている。

それは僕がアメリカにいるからだ。

もう少し具体的に述べると、アメリカにはセブンスターという煙草がなく、加えて、その相方とも呼べる缶コーヒーが売ってないからだ。

セブンスターと缶コーヒー。

日本ではこれを1日のはじめの喜びとして感じていた。

もちろん、他にも喜びはたくさんあったのだけれど、これは金で買える喜びだったので、毎日欠かすことのないものだった。

金を出しても買えないものとなってしまった今、凄くそのものを貴いものに思える、のみならず愛しくも思う。

なにげなく火をつけて、カチッと缶のプルリングを引く、その一連の動作が堪らない。

17 Aug 1998

禁煙したと書いているけど、実際はやめれてなかったと思います。たまたま日記を書いている数日に禁煙してただけで、帰国後すぐセブンスターを買い求めたのを覚えています。

8月18日 ホワイトハウス

ワシントン・ナショナル・ギャラリー

ワシントンD.C.では、スミソニアン博物館やワシントン・ナショナル・ギャラリーと見どころはたくさんあった。

とくにワシントン・ナショナル・ギャラリーはゴッホやゴーギャンの絵をみることができて、とてもよかった。

ニューオーリンズ美術館からワシントン・ナショナル・ギャラリーと美術館が続いている。

ホワイトハウスまで散歩

今日は朝からホワイトハウスに行った。

行ったというと前を通っただけかと思われるが、実際にホワイトハウスの中に入ってきた。

朝、僕がホワイトハウスまで散歩に行くと、ホワイトハウスの前に大きな列ができており、なんの列だろうと思ってみていると、その中に知っている日本人の女の子がいて、僕の名前を呼んだ。

ホワイトハウス見学ツアー

彼女はニューオーリンズで知り合った女の子で、ワシントンD.C.でもユースホステルに泊まっていた。

ねえ、これから、ホワイトハウスの中に入るから、一緒に行こうよ

これから並んでも、大丈夫なの?

わたしの友達だって言うから大丈夫だよ

列に途中から割り込むのは悪いから断ったが、押し問答をしているうちに不自然なく彼女の同伴者と見做されたので、そのまま列に並んで、そのままホワイトハウスに入れた。

長蛇の列に1時間

ホワイトハウスの中を見せる見学ツアーがあることを僕はそのときまで知らなかった。

もっとも知っていたとしても、長蛇の列に並ばないといけないなら、僕はきっと行かないところだ。

しかし、今回は、列に割り込むことができて、なんなく見学ができた。

僕と一緒にツアーにした彼女は早朝から1時間以上並んでいたそうだ。

チャイナタウン@ワシントンD.C.

ホワイトハウスに関しては、中に入ったということ自体に価値があり、ホワイトハウスの中がどんなだったかについては、僕自身にあまり深い感想はない。

見学ツアーでみる限りの場所なのだから、やはりそれなりにツーリスティックな空間だったと思う。

誰もが帰国したら、ホワイトハウスの中に入ったことを自慢しようと考えたのだろう。

僕自身はこの日は、ホワイトハウスより、夕暮れに立ち寄った、どこにでもある小さなチャイナタウンの方が良かった。

ワシントンD.C.のチャイナタウンはとても落ち着ける場所だった。

18 Aug 1998

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