万延元年のフットボール

たくさん小説が読める感情が育ち始めている。

もっとも、大人も子供も、たくさん本を読めばいいというのは間違った考えで、僕に限っていうと、本は新書やビジネス書でなく、小説である必要があり、その場合小説を読むほうの活字は中毒性がない。

小説には知識欲とかが働かないからだ。

本を読み始めて、数さえこなしていればいいと思っていた時期は小説の中に知識やうんちくを求めたりはしたけど、本来、小説は読む者にそういう前知識を求めていないのだから、こちらもゼロの状態で挑み、ゼロの状態で帰還すればいいのであり、若い人の読書と、僕の読書はそこが違う。

あくまでも本を人生や将来の為に読んでないところ。

本を読むことが人生で、読んでる今が将来だったりするわけだ。

高校2年生のときに大江健三郎が、ノーべル文学賞をとり、翌年、受験を控えていた僕らに向かって、高校の先生は、来年は大江健三郎が国語に多数、出題されるから、読んでおきなさいと言っていたのを僕は忘れないんだけど、やっぱり大人の感覚はその程度なんだと今でも思う。

テストに出るから読むのが、文学で、なにかの為になるから、読むのが本の類なんだ。

それから10年後ぐらいに僕は『万延元年のフットボール』を読んだけど、すごい良かったのを覚えている。

あのときは確かに僕の中で大江ブームがやってきていて、片っ端から読んでいた。

でも、その話の内容は全部、忘れてしまい、正直、なんの役にも立っていない。

ただ、あのメガネの風体のおじさんに愛着とか共感が生まれて、今でも少なからず文学者とか作家とかの存在意義を信じているだけである。

夢を見る力とか何かを信じる力、それに似たもの。

そしてこの夏はガルシア・マルケスを読み始めようと思っている。

『百年の孤独』タイトルだけで凄さが伝わる。

本を買って棚に並べるだけでも、いい気がする。

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この記事を書いた人

三重県生まれ。現在は給食調理員をしながら両親と3人で暮らしています。趣味の読書と音楽鑑賞に加えて、自分でも様々なものを書いています。

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