気持ちとは=痛みであること

昨日は久しぶり出掛けたけど、年末なのか中央線の中が騒がしかった。

でも山手線は空いていたな。

真夜中に地元の駅についたら、いつもより車の量と人の数が少なかった。

冬の空がまだ明るい。

先月まであった小学校が取り壊されたので、景色が変わった。

いつも同じだと思っていた景色が少しずつ変わっていくのではなく、気付いたら一気に景色は変わっている。

都市の景観は30年に一度、ガラリと変わると言われているが、僕が東京に来てからも随分、景色は変わった。

景観だけでもなく、身のまわりの事柄も変化に富んでいて、僕自身もそういう身のまわりの変化から色んなことを考えさせれられる。

以前は、他人の人生に耳を傾けることはなかったけど、最近は、他人の人生の重さを、自らに関連づけることができるようになり、色んな言葉を吸収するようになった。

おまえに俺の気持ちがわかるかよ、と言われたら、以前はわからないけど・・・と思っていたことも、最近はなんとなく気持ちとは=痛みであることが、わかるから、自然と言葉数が減ってしまう。

たぶん、行動が伴わないから誤解されるんだろうけど、僕は覚えておくことであらゆることに許しを乞うているんだと思う。

その交換手的な役割に徹することになれたら、僕の見ている景色がもっと愛おしくなるだろうな。

自分の持っている言葉が古いとき、若い人の言葉が新しくて美しく響くのも、たぶんそこにある痛みを僕が感じるからだろう。

そういう風に考えているから、歳を重ねるのも悪くないと最近は思っている。

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この記事を書いた人

三重県生まれ。現在は給食調理員をしながら両親と3人で暮らしています。趣味の読書と音楽鑑賞に加えて、自分でも様々なものを書いています。

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