一年が早いかどうかの話はよくわからない。
ある部分では早いと言えるし、ある分ではそうとも限らない。
ただ何かをしていないと、あっという間に時は過ぎていくということは、ある程度、信頼の置ける事実である。
約一年間、毎日(のように)、ブログをつけてきたけど、なにか僕の中で変化したことがあっただろうか。
僕の経験上、これが何かの変化として現れるのは、あと数年必要なんじゃないだろうか。
どちらにせよ、毎日、同じ時間に頭をひねらせてああでもない、こうでもないと誰かに(たぶんいつも誰かにむけて)読んでもらえると思い書いていたことは確かなことだ。
ただ毎日、外へ向けて文章を書くということは、思っているより、エネルギーのいることだと感じた。
なんでもないことのようにも思えるけど、知らず知らずの間に、色んなものが消耗していて始めたばかりの頃は、ストレスの発散にもなっていたけど、後半はブログがストレスになっていた。
夜11時に机に向かうのが正直、しんどくて。
でも、一年は続けると決めていたので、なんとか、書いていた。
けど、後半の文章はやっぱり出鱈目ばかりで、読んでられなかった。
僕は基本的に、自分の文章が好きなので、けっこう何回も自分のブログを読んだりするんだけど、近頃は、更新したきり読まないようにしている。
こういうことが溜まりに溜まって、しばらくブログを不定期の更新にすることに決めた。
なにか書きたいときに書く。
たぶんそれが一番、正しいやり方なんだと思う。
いやそれは言い訳で、ブログは毎日つけないと意味がないという僕の意見は一貫している。
ほんとは糸井重里みたいに毎日、永遠と続けたかったんだけど、あまりにも高い壁だった。
だから一年、ブログを書いたという達成感はなく、敗北感だけが残る結果となった。
ただ、書けなくなったのとはわけが違うので心配しないでください。
僕はケチな性格なので、ほんとは出し惜しみしているんです。
自分の関心ごとは今、社会こと、政治のことじゃなくて、とても小さなプライベートなことで、書くとしたらほんとはそれを書かないといけないわけで、それはふだん書いてる未発表の小説には書けるけど、こうして毎日、人に読んでもらう文章の中ではうまく書ききれないからです。
僕がもっと公然とした作家になれば、いや作家になれるぐらいの技量があれば、今だってそれを書くこともできるんです。
結局、僕が作家になれず伸び悩んでいるのはその差なんです。
でも、今は現実の問題に向きあうべきだから、作家のことはしばらく忘れます。
今、ブログや、ツイッターや、フェイスブックやなんかのソーシャルメディアが当たり前になって、みんな何気なくそれを使っているけど、やっぱり普通じゃないと僕は思っています。
たぶん世界はその方向へ行くんだろうけど。
僕はその世界からは呼ばれていない気がする。
たぶんほんとは誰も呼ばれてはいないんだ。
何か楽しそうだから、寄っていっているだけで、ほんとは楽しいものは何もないんじゃないだろうか。
家の中でパソコンを叩いているだけで、誰と出会うんだろう。
でもそれは今、ジャッジすることじゃないんだろう。
わかりきったことなのにも誰もジャッジできないなんて馬鹿げているけど、ただ逃げずにそれに向きあうしかないんだろう。
でも、いつかわかるときが来れば、それは幸せなことだ。
つまり、楽しさはそういうツールを通じて起こる楽しさなのか、それともそんなツールがなくても僕は十分な楽しいものを持っているかどうかを考えることが大事なんだろう。
今、頼りにしているものを一回、手放してしまわないといけない。
追記/
昼間、久米宏のラジオで、ベテルギウス超新星の爆発の話をしていて、もし近いうちベテルギウスが爆発したら、それはとても明るくなり、地球に月が二つ浮かぶかもしれないという話をしていた。
『1Q84』じゃないか。
ほんとはその話を書きたかったんだけど、忘れていた。
月が二つ浮かんでいる世界に僕は呼ばれているかもしれない。
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