セントラルパークのカフェの女の子と交わした会話

色々な思いつきやら、思い出やらが、言葉になりそうでならない。

日々、音楽を聴いて、とてもリラックスしている。

自由に生きる言葉だけを僕はこころに刻み込んでいる。

店で外国人のお客さんと、ときどき英語をしゃべるとき僕の頭の中には、いつもニューヨークのセントラルパークのカフェの女の子と交わした会話や、コニーアイランドの風景を思い出す。

僕は詩を書きながら、旅をしていて、今、思うとイタイ青年なんだけど、僕にはある種の切実さがあり、旅をしながら詩を書かないといけなかった。

僕は彼女に詩人なのかと訊かれて、ただのリュックパッカーだと答えた。

それから彼女は僕のメガネを褒めてくれた。

僕はその頃、ラストエンペラー(溥儀)のようなメガネをしていて、どう見てもイケていなかったけど、彼女はナイスグラスと言ってくれた。

僕はアイム・ジャパニーズというと、彼女はアイノウと言ってくれた。

そのときつけていた日記にはそのときのことが書いてある。

そして今、詩は書かない。

そしてほとんど読まない。

読むのは物語だし、書くのも物語だ。

でも、詩の大切さは、その頃、学んだ。

そして同じぐらい音楽にのめり込んだ。

その根底にはずっとブルースがあり、僕はブルースを僕にとってのブルースはある種の切実さなのかもしれない。

こないだ老後の自分についての意見を求められたときに、僕の意見が一番、詩的な輝きを放ったと思う。

僕はここからあと50年生きるつもりで、身体と言葉を大切にして暮らしているし、だからまだ半分も生きてないし、70歳ぐらいまでバイトでもなんでもして働くだろうし、やっぱりニューヨークへも行くだろうし、これは本当に思っていることなので、きっと実現するだろう。

という風にアンケートに答えた。

ある種の切実さというのは、肉体的にも精神的にも人をタフにしてくれるものだと思う。

それが他人から提示され与えられたものではなく、自分で選びとったものであるなら尚更である。

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この記事を書いた人

三重県生まれ。現在は給食調理員をしながら両親と3人で暮らしています。趣味の読書と音楽鑑賞に加えて、自分でも様々なものを書いています。

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