僕はあんまりテレビのニュースや新聞のニュースを見ないし、ツイッターでもサブカル方面しか興味ないから、フォローしていなくて、あんまり、世の中のことがわかっていない。
そのくせ、メディア批評やドキュメンタリーや社会派な作家が好きで、いろんな出来事をそういう作品や作家から学んでいて、僕が書いていること、考えとして持っていることはそういうところから仕入れている。
今でいうと、平日の月~木の東京FM18:45~19:45のタイムラインという番組が僕の時事ネタ情報源だったりする。
ラジオというのは、テレビほどたくさんの人が見ていないし、テレビほどおおげさじゃないし、個人の意見が大事にされていて、それがいい意見なら耳にしばらく残る。
僕独自の意見はどれかと言われたら、よくわからないとしか答えられない。
その時々で意見がぶれる。
わりと感覚で持って判断するので、論理的な人間と話が合わない。
合わないけど、合わせるのがうまいから、口論にならない。
というけど、論理的な人間は一番最初の意見を曲げない。
曲げないように他の意見を調整してそれを正とする。
僕は違う。
最初の意見が気に入らなかったらすぐに次へ行く。
訂正はしない。
誰に何の為に訂正するの?
自分にはする。
自分は大事だから。
でもそれだけでいいと思う。
だから、人に自分がないのか?
と言われたら、ないとしかいいようがない。
なぜなら、そういうことを聞くような人にどんな言葉を使っても説明することができないからである。
ディランが『ドント・ルック・バック』という記録映画で、記者の質問に怒るシーンがあるけど、あんな感じだ。
「そんな失礼な質問にどうやって答えたらいいんだ?」
言葉でしかものごとを理解できない人間は五万といる。
僕はそういう人たちと争わず、ニコニコ暮らしている。
ときどき、言った、言わないで攻められる。
前はそう言ったかもしれないけど、今はそう思っていないというのが僕の本当の意見である。
よくわからないのである。
今、世の中で起きていることを言葉で説明することに僕は意味があるとは思えない。
テロリストにテロしかけて、喜んでいる映像をテレビで流すことに意味があるとは思えない。
外にいる関係のない人間があの会社の社員をリストラしろって言う。
リストラされる人には家族もいるし、被災した友達もいるかもしれない。
サンドバック状態の無力な電力会社を責めるだけ責める無名議員たち。
彼もこれで名が売れたら責めなくなる。
優れた小説がどういうものであるかはよくわかる。
小説は言葉で説明できないものを言葉を使って説明するもの。
音楽に詩をのせることで、どうしてあんなに力を持つのかも少しずつわかるようになってきている。
僕は今、そのわけを知りたい。
でもそれは、ただ僕だけがわかればいいこと。
昔はもっと色んなものを説明しようとした。
でも今は色んなものを説明したくなくなった。
というのは、音楽とか小説とか絵とかの力に圧倒されて、言論にカッコ良さを感じないからだ。
○○論、○○主義とか読んだけどもう全部捨てるぞ。
僕にとっては小説言葉の方が、力を持っている。
ある一行にコンタクトしただけで、ビビッとくる。
15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになる。(『海辺のカフカ』より)
この一行に僕にとって大事なものがぎゅっと詰まっている。
よし、キマった。
コレ書いたらなんか気分がよくなった。
寝よう。
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